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新たな独裁制、地獄の国

今日は海外に出発する旅客に対して、統制が強化されたことで、フェイスブックの友達は投稿で不満を言った。私はこの政府の政策に対して、こう答えた。当政府はヴィデーラの独裁制を批難するが、この政府の政策は70年代の独裁政権より悪いのである。クリスティーナ大統領は独裁者になってしまった。   70年代の独裁の時、生存する方法は野党やテロ組織に属しないことだった。そして、いつもどこにいても身分証明書を手元にしなければならなかった。しかし、現在の政府の時、どんな方法をとろうと、危害または、殺害される恐れがある。分権が広がってきたこともある。当政府は自分の利益のために、独裁的な政策を行っているのである。危険性についてのこんな方策をとるのは人権を侵しているため、人道犯罪を促進している始末である。それは罰されるべきである。クリスティーナ大統領は毎日起こっている罪をサポートしたり味方したりすると、犯人にもなってしまった。アルゼンチンの国民は他の独裁政権の中で暮らしているが、これは前の独裁制よりずっと悪いと思う。既に、無罪の人々の血がたくさん零れた。   当政府はテロリストによって統治される。支配者は若いうちに、人々を殺したことがある。今、そのテロリストは政府にいて、自分の思想を広めている。彼らは良い人だと私達に信じさせている。マドレス・デ・プラサ・デ・マショという組織は政府にもあるのは、その子供達はテロリストだったからである。子供は自分の政府が発足するように、争っていた。アルゼンチンへの愛のために、治めるのではなく、権力とお金を巡って、治めるのは皆である。   支配者は王国のように、生活していて、権力を広めるために、国を破壊して教育を改悪させる。国民を政府に依存させる。そのため、手当てを与えたり、資本利得税を採択したり、ビシャというゲットーを建てたり、犯罪を促進したりする。政府の演説は聞いて娯楽、見て地獄。支配者は私達に範囲以上を見渡させない。神々のように、奉らせるのである。解決は汚職を覆すことだと思う。それは一筋縄でいかない問題だろう。   まず、解決するために政府にいる支配者は正義に罰されるべきだと思う。でも、これはこの国ではユートピアンである。汚職は制度化された。マフィアのネットワークである。 残念ながら、権力が最も高い唯一の政党はペロン主義である。過半数のリーダーはペロン

キルチネルが暗殺か

今回はアルゼンチンの現代の歴史の大きい不可解の1つについて、 話す。多分、黙ったほうが良いが、心から届け出ねばらない気がする。 2010年の10月27日の朝、ラジオで元大統領キルチネル・ネストルが昨夜死去したと報じた。死因は心臓発作のためだったという。その日は国勢調査が行われる予定だったが、その事件のため、見合わせることになった。 全国では哀れな雰囲気を感じっていたものだ。誰も待っていなかった死亡の知らせだったのだ。しかし、葬式の時、怪しいことが起こった。元大統領の遺体は蓋を閉めたまま、棺の中に入っていて、告別式がとり行われた。つまり、葬式の議定書によると、大統領が亡くなった時、遺体を国民に見せるようにして行うべきだという。それでは、遺体を隠したのはなぜなのだろうか。誰も遺体が見られなかったのはなぜなのだろうか。果たして、知ってはならないことがあるのだろうか。誰も何も怪しまなかったのだろうか。多くの問いかけなのだが、誰かが捜査をしないと。。。 でも、どこから取り掛かろうか。始めに、色んな手段で情報を集めたら最後、「シデ」という国家情報局にたどり着いた。でも、返事がなかった。 4年後、5月の涼しい夜に、喫茶店で悩ましい姿をした人に会った。「誰?」と聞いた。「私はあなたが探している答えを持っている者です。立ち話もなんですから、お座りください。」と答えてくれた。「何を探しているか分かりますか?」「これです。目を通して判断して下さい。」「何で?お返しは何でしょう?」「とんでもありませんよ。私はただ頼もしい人間だけです。内密の方針をよそに、この情報をお渡ししますが。」とその人は話した。「ちょっと、散歩しましょう。歩きながら、行動を詳しくご説明します。」と誘ってくれた。 午前2時半ごろだった。道はすっかり空いていたものだ。人々は家でマイダナとメイウェザーのボクシングを観戦してこもっていたからだ。遠くから応援をしつつやじりつつの騒音が聞こえた。その無名な人物は情報をどうやって得たかという根拠を発表するために、自分の仕事について物語った。彼は政府との近い関係があるとほのめかした。私がその間にシデのエージェントかと問い詰めたが、お茶を濁した。しかし、ある秘密を言った。たとえば、シデはブエノスアイレス大学の文理学部でも怪しい学生達と政党の組織をスパイする手口を解説したり、中央情報局

アルゼンチンでの日本語翻訳大学専門

編集を勉強する大学に入る前に、日本語翻訳を勉強したかった。しかし、その目標をやめて、編集に従事することにした。理由は日本語の高い水準がなかった以上、日本語翻訳を勉強する大学に入るのに、無理だと言われることだ。インターネットで調べた結果、アルゼンチンで日本語翻訳に従事する唯一の大学はブエノスアイレス大学なのだ。そして、入る前に、CBC、いわゆる、基礎知識講座という受験科目に受かった後、スペイン語試験と日本語試験をパスせねばらないそうだ。そのCBCって、社会的国家知識、科学的推理知識、法律人権入門、中南米法律知識、社会学、記号学という6つの科目で構成される。各科目の学期は4ヶ月の期間と定められている。   語学試験の場合は、スペイン語試験の時は筆記試験だけだが、日本語試験の時は口頭試験と筆記試験を受けるのだ。口頭試験では、受験者は新聞や雑誌などに載せられた記事や写真をもらって、その資料に関して、文法をきちんと使って分析と解説をやらなくてはならないそうだ。それから、筆記試験の時に、ある近代の著者のテキストの内容について、日本語で作文を書いて、説明した上、日本語文法試験をするとのことだ。合格してから、大学に入って、5年間のカリキュラムがあるその専門に従事することができる。しかし、どんな大学専門を勉強しようと思っても、そんな資格が必要なのだ。それなのに、だれも日本語翻訳を勉強しないのはなぜなのだろうか。   調べたところによると、国内には西日日西翻訳家が2人ばかりいるそうだ。2人は日本人、あるいは日系人で、自分のビジネスなのだから、他の人に翻訳家にならないでほしいと思っているかもしれない。この翻訳家も試験官として入学試験で担当するため、試験に合格させないことになる。大学の官庁に抗議しても、この状況が続いている。大学の先生方からは適度な国語のレベルが十分にないっていう言い訳が届いてくるだけ。あるインターネットフォーラムのユーザーの投稿によれば、ラプラタ学校出身者の日系人も受けたが、失敗したとのことだ。日本語翻訳専攻のマフィアの成果にほかならないと思う。 それでは、勉強したいなら、海外に行くしかない。それとも、違法だけれども、試験官に多額な賄賂を払ったらいいのか。最後に、その翻訳家が死ぬまで待つのか。適当な方法がどちらなのかとまだまだ考え続けている。皆さん、アルゼンチンの中

油断大敵

子どもの頃、小学校の休憩時間中に、いろいろな遊びやおもちゃで遊んでいた。その一つが面子だ。男子の間で大流行したゲームだった。円形のプラスチック製のカードで、片面にポケモンの図柄が施されているカードを、地面に滑らせるように、注意深く投げて、相手のカードを追い越したら勝ち、その相手のカードをもらえるというような遊びだ。私は学校で他の子がよくしていたサッカー、隠れんぼ、鬼ごっこ、縄跳び、ビー玉等で遊ぶことがあまり好きではなかったのだ。面子は未だに私にとって最高に楽しい遊びだ。 この間、部屋を片付けていた時、ある箱を見つけて開けたら、ポケモンカードの面子が中に入っていて見た途端に郷愁が湧いて来た。子どもの時のように、また遊びたくなったのだ。そのカードがlay'sというポテトチップスの袋の中におまけで入っていたことを思い出す。そして、趣味としてもそのカードを集めていたので、50枚ほどあった。たいてい、同じカードが当たったりして種類が重なったものは、片方だけを繰り返し使って遊んでいた。だから、負けて、取られたとしても心配はなかった。相手に勝った時、摩れて台無しになったカードをもらうのは嫌だが、受け入れるしかなかった。そういえば、私も負けたとき、ボロボロのカードを渡していたな。 学校では、仲間に挑戦するために休み時間になるのがいつも待ち遠しかったものだ。この遊びのおかげで、生活の中で例えつまらなくても、次に来る楽しい瞬間のために頑張ることの意味を習ったのだ。ある日、クラスメートといつものようにゲームをしていて、大切なことを身につけることになる。それは未だに覚えていることである。彼は先にカードを投げたが、そのカードは壁にぶつかって、ずいぶん弾んでしまった。私は嬉しいことに、「よし、もう勝ったぞ!」と思って安易に投げたところ、仕舞いに相手のカードを追い越せなかったのだ。調子に乗った上に負けてしまったから、信じられなかった。その日から「油断大敵」ということわざが身にしみて分かり、どんなことにも決して油断してはいけないと、心に刻んだ。簡単でも、一番難しいことへの挑戦のつもりで頑張らなければならないのは、遊びながら習った教訓である。

国を治める事態

私が夢見る好きな国というものは暴行したり、暗殺したりされるという恐怖なしに、自由にどこにでも出掛けられるし、全国民が給料が良い仕事も持っていて、良い教育も受けるし、国の経済も大体安定しているということだ。果たして、私の国、アルゼンチンはそうなのだろうか。残念ながら、そんな国になるのはずいぶん遠いはずだ。   アルゼンチン人はこの国でいつも危機の中で暮らしていた。新しい政府が発足する度に、希望も生じる。つまり、国が復興して、失業率が減少するし、安全率も高まることを期待されるということだ。いつも同じことが起こる。政府の冒頭では情勢が良くなっていくが、後は悪化してくるのだ。とうとう、新たな不況に入ってしまう。それはどうしてなのだろうか。その原因は汚職と言われる。各大統領が権威とお金の意欲により、盲目になって、過失犯をし続ける。そして、国民の無知によっても、再選挙で当選してしまう。特に、中南米の国民が羊のように治められ、慣れさせられた。政治家は人を見ないで、一票ばかりを見るのだ。一票があればあるほど、もっと権限を得ていくから。大統領が民主主義的な独裁者だと言えると思う。 私は子供の頃でさえ、危険性があったことを思い出す。「スイスの旗を見ると、将来スイスに住みに行きたいものだな。きっと、泥棒がいないから。」と何回も言っていたものだ。スイスの旗に施される十字は平和を象徴すると思ったから。 最近、経済情勢はすごく悪化してきた。したがって、犯罪率もだんだん高くなっていく。しかし、誰も何もしない。責任をとらず、他人を避難ばかりしている。盗難、窃盗、恐喝、強奪、暗殺、婦女暴行、人身売買、麻薬密売という罪は毎日継続しているのだ。 私も罪を実感したことがある。最後の高等学校の年の時、学校から帰宅途中に赴いたら、裸の胴体のままの20代の少年が私に近づいて、こう言った。「てめえ、 助けてくれ!俺はジョーニという。食べるために金をくれ!」私はすぐにお金は何もないと答えたが、彼はお金がどこにあるか問い詰めた。実は、私は真実を言っていた。お金はないはずだった。それから、ジョーニは「探して、金を見つけたら、お前を傷めつけてやってくれるぞ。」と脅かしてきた。その瞬間、母が2ペソの札をくれて、すぐにポケットにしまってしまったことを思い出して、その札を渡してやった。彼は嬉しそうに逃げた。その日から、

百周年の第一次世界大戦

今年は1914年から1918年にかけて戦われた第一次世界大戦から百周年になる。今回は大戦の最も大切な行事の粗筋を下記のように、記す。 19世紀末に、欧州の国々は植民地の配分をめぐって、競争して、軍備を増加した。国民感情は紛争を高めた始末である。それから、2つの連合が締結された。英国とフランス、一方、ドイツとオーストリア帝国。1914年の6月に、フランツ・フェルディナントが暗殺されたため、オーストリア帝国はセルビアへの侵攻を始めた。数週間の後、イタリア、ポルトガル、ルーマニア、日本、英国、ブルガリア、トルコとドイツは戦争に出てしまった。 1914年にはドイツの軍隊はベルギーとフランスに侵攻したが、パリの前で陥った。前線は4年間安定していた。その間、トレンチを掘っていたし、勝敗もあるし、機関銃と有毒ガスの使用のため、死亡率はすごく高かったという。 オーストリアはイタリアの攻撃に抵抗している間に、ドイツはロシアにも侵攻して、ロシア帝国を麻痺させた2つの大事な勝利を得た。1915年からは、戦争は植民地に広まった。英国艦隊は領土を守って、いくつかの戦闘で強いドイツ艦隊を敗北させた。でも、トルコでは血だらけの戦場となり、上陸に敗北した。 1917年にはドイツも新しい潜水艦を操って、戦外中立の商船を攻撃することにした。その攻撃を皮切りにして、米国はフランスの前線に軍隊を送るということになっている。 1918年の初めにはドイツはロシアと条約を結んだ。また、3月にはフランスを攻撃したが、パリでやっつけられて、連合国はドイツの領土を攻撃し始めたのである。 1918の11月には、ドイツで革命が起き、新しい共和国を建国して、オーストリアからの懇願によっても、平和への交渉を始めた。休戦はその当時に結ばれたのである。 1919年の初めに、ヴェルサイユでは平和への条約を提示した会議が行われた。第一次世界大戦では一千万人以上の人が死んで、七百万人ほどの負傷者が出たという。それに、数百万人は母国から離れさせられたり、国籍を失ったりしたのである。大戦が及ぼした破壊は甚大で、怒りは戦争が勃発する前よりずっと深くなったというものである。

アルゼンチン、準優勝

24年ぶりにアルゼンチンがワールドカップの決勝戦に出た。ブラジルワールドカップの時は、誰もこのチームにほとんど自信がなかった。しかし、各試合に勝つにしたがって、全国に誇りと感動を振りまいた。残念ながら、アルゼンチンがドイツに負けて、準優勝になったが、素晴らしく頑張った。 アルゼンチンはワールドカップに2回勝った。1978年には初めてアルゼンチンでワールドカップが行われて、決勝戦にたどり着いて、オランダと争った。そして、優勝した。それから、1986年度メキシコで開催されたワールドカップではドイツと勝負して、3対2でアルゼンチンが勝った。ただし、1990年にはまた決勝戦でドイツに当たって、ペナルティのため、負けてしまった。アルゼンチンが今年まで決勝戦に出られなかった。ドイツはいつも強い敵だった。 今年こそ、またワールドカップの決勝戦に出たからって、世論はメッシを中心としてチームのサッカー選手達を非難した。でも、マスチェラノのようなサッカー選手を褒めた。あるファンがメッシに対する非難に関して、下記のようにフェイスブックにメッセジを書いたのだ。 「この悲しい人「メッシ」を御覧下さい。彼は背中をそらされ、沈黙のアルゼンチン社会で育った子。私達の国の医療ではなく、スペインへ渡って治療を受けました。11歳の時から、成長やっとできて、僕らの旗で優勝するためにたくさんの注射を受けました。メッシはスペインに敬意を払われて、スペインのチームに入って、代表として2010年にワールドカップで優勝するチャンスを断ったからといって、まだメッシを疑う人がいますか!。テレビ、あるいはピッチで彼を見たりした誰もが彼のようには、少しも苦しんでいないはずです。 メッシはカップが取れなかったため、誰よりも苦しんでいます。彼のシュートからノイアーの左ポストに触れたボールのためにも、誰よりも苦しんでいますが、ワールドカップの時には、彼のゴールを応援したアルゼンチン人の応援者ほど嬉しくなかったはずですよ。なぜなのでしょうか。なぜなら、試合でサッカーをしながら、今度の試合に2倍の努力をしなければいけないプレッシャーを持って、素晴らしく競技しても、意地悪な人からはなじられるおそれがありましたから。メッシが個人的にうまくいっている時はチームがメッシに依存してしまうことを非難して、メッシが集団的にうまくいってい

ワールドカップ、日本人の応援者

ブラジルワールドカップでは、日本人のファンは試合後、スタディアムのごみを拾って、誰もを驚かせたのだ。日本人によれば、応援者のこの態度は日本文化に根付いている。小学生の時から、学校の使った場所の物を掃除することを習うからだという。そして、おおむね家族は家庭サービスを雇うのに、すごく高いので、自分の家庭を掃除するそうだ。 日本文化では、通常は責任を各自が負担することを強調するが、掃除の場合は汚した人の責任を求めるというより、垢を掃除することこそを重視するということだ。あるウェブサイトの記事によるごみを拾うニュースが伝わって、フランスワールドカップを皮切りにして、世界に広がった。その当時、日本人同士の座右の銘は「来たときよりも美しく」だった。日本の旅行会社はサッカー選手を応援するついでに、ごみを拾うために客に青い袋を配っていたそうだ。 サッカー選手の場合は、試合が終了した後で、応援者にお礼をする。特に、アルゼンチン人が腰を抜かしたのは日本の応援者がアルゼンチンのサッカー応援歌を真似て歌って日本のサッカー選手を応援していることだ。 上記は本格的な日本人の特色だと思う 。

恩師への想い

昨日、悲しいお知らせが届いた。驚くべきことに、母校の体育の先生だったブルーノさんが亡くなったのだ。仲間の話によれば、49歳で、腎臓癌によって死去したとのことだ。彼は僕が高校生の時の僕の体育の先生だった。準備運動、ストレッチ、身体検査のような、体育と健康の大切さを教えてくださった。僕は運動をする時、 未だに 恩師の授業が頭の中に浮かんでくる。 先生のおかげで、体育が重視だと学んだ。学校での良い思い出の中には、いつもはブルーノさんがいたと思う。 こっけいな彼もモリア・カサンの娘の水泳の先生だったこと、マラドーナと共にサッカーをしたこと、パッチ・アダムスとも知り合ったことなどの話をしてくださったものだ。 楽しい人だから、どんな時に真面目に話していたかどうか分からなかったので、学生の僕を時々迷わせたのだ。 この素晴らしい世界への第一歩を後押ししてくださった逸話と経験も豊富な恩師のために、この投稿を書いた。彼の教訓が心に刻まれているのだ。いろいろありがとうございました。

友好の縁

2007年の高等学校の授業の最後の日では、「今日からは、自分たちで決めたことによって、僕等の将来が良くも悪くも変わるのはもとよりですが、何よりも距離が遠くなっても、この縁や関係が絶えないように!」とだれかが言った。 この何年間にわたって、色々な出来事が起こった。クラスメートの何人かは子どもができて、家族を作ったし、何人かも色々な職場や看護師やトラックの運転手といった職業で働いているし、他は頭の腫瘍が見つかって重病を苦しんだ間に、完治した。学校の他の知人はバイク事故のため、一本の足をなくした。その後、大手のスーパーのトラックを暴行して、品物を盗もうとしたら、警察によって逮捕されて、3年間ぐらい刑務所にいて、高い保釈料を納めて、自由になったとのことだ。今は父親になったそうだ。何人かは麻薬中毒者だそうだ。おかげさまで、大学に進めた人もいるよ。 僕は学生の時、クラスメートと一度も出かけたことがない。僕の性格、生活ぶり、好き嫌いが何人かと合わなかったため、その何人かと仲が悪かったのをきっかけに、僕は皆に怒ってしまったというわけだ。ひきこもりのような生活を送ってしまった。学校に通うためだけに出ていた。今、仲間に対して怒ってしまったことをちょっと後悔している。日本語の勉強をし始めたことが契機となって、僕はだんだん気さくな性格になってきたのだと思う。情報理学の専門を勉強し始めた時も、新しい人々と知り合って、違う現実や他の人の体験を知ったりしたから、考え方を切り変えられた。 実は学校の仲間と一度出かけたことがあることを思い出す。建築に関する実習をやるために、四人のグループで、色々な建築様式の建築物の写真を撮ったり、取材をしたりすることを目標に出かけねばらなかったのだ。仲の良かったクラスメートと集まって、出かけた。首都に行って、カサ・ロサーダ「大統領府」、カビルド「国家が生まれた場所、すなわちこの国が自治を得た集会が行われた場所」、テアトロ・コロニアル「コロニアル劇場」、フラガタ・リベルター「リベルター船」といった有名な場所の写真を撮った。 本当に楽しい日を過ごしたが、帰りのバスに乗った時に本当の冒険が始まった。バスに乗って、平原の所を通過したとたん、突然、バスが石を投げて襲われた。窓のガラスが割れたし、一人の乗客も顔をけがした。泥棒はバスを暴行するために石を投げたが、運転手は

後藤先生の思い出

私は日本語の先生がたくさんいた。その一人が後藤先生だ。彼女の教え方は日本の学校と同じぐらいだったと思う。授業を始める前に、生徒が起立して、「礼、お願いします」と言う同時に、礼をしていた。それから、授業が終わる前に、今日習ったことについて感想や意見を述べさせる。最後に、私達生徒が礼をしていたことを思い出す。私は日本にいるように感じていた。時々、黙想もしていた。ある日、先生と書道のクラスがあって、5月に関する好きな漢字を選んで、半紙に筆で書いてから、黙想。目を閉じて、選んだ漢字等について考えさせた。私は「五月の愛」と書いて黙想した。黙想しながら、女友達の気持ちが分かった気がした。黙想の後、先生は黒板の前に立って、選んだ漢字についての感想を一人一人言わせた。僕は女友達と先に前に出て「愛を感じるのが好きですから、この漢字を選びました」と言ったか言わないかのうちに、その女性は「ねえ、それはあたしも言うのに」と大声で言ってくれた。私は信じられなかった。彼女が考えていたことが分かるようになったのだ。黙想というものは以心伝心を促進する有効的な方法のことだと思う。 今日は日本語のメモを整理したら、後藤先生の授業で書いたこの作文を見つけた。 「 私 の 妹 僕の家族は4人です。両親、妹と僕です。妹はセシリアです。誕生日は10月の14日で、年は21歳です。妹はおしゃべりですが、やさしいです。彼女は髪の毛が茶色で、目が黒いです。それに、痩せていて、身長は1.70ぐらいメトルだと思います。勉強は自分の部屋でずっと集中してやっています。 子どもの頃天気がいい日にテニスをしていた事を思い出します。一日中家の庭で遊んでいました。時々私が勝ちました。5歳のときは遊戯的な女の子でした。ある日、家族とスーパーに買い物に行って、買うものを払うときレジテープに指を挟んでしまいました。みんなびっくりしましたが、おかげさまで痛まらかったんです。大人になってきたときといえば調理師になりたがりますが10歳ぐらいのときは目医者になることを決めた。とうとう、ファッションデザインの講座を始めて、高校学校を卒業した後で、ジャーナリストになるように大学に進みました。 妹はファッションデザイナーです。そして英語とコミュニュケーションを勉強しています。デザイナーとしてシェラトンホテルで仲間とファッションショーを開き有

国際交流基金奨学金の試験での体験

僕の夢の一つがいつか日本に行くことなのは誰だって知っているだろう。僕の友達のうち何人かはその夢を叶えた。その一人はルシアと言う。彼女は奨学金を受け取って、日本を訪問することができた。ルシアさんは日本語を勉強することを目標に僕と同じ日本語学校に通っていたが、僕は彼女が奨学金をもらったというニュースを聞いた時、すぐに尋ねた。「おうっす!ルシアさん、日本に行くって知ったけどさ、どんな奨学金受け取ったの?」と聞いた。「フアンさん、成績優秀者っていう国際交流基金の奨学金なの、日本滞在って2週間よ」と答えた。「その奨学金の目的さぁ、何?」とすぐに問い詰めた。「内容は日本語の勉強を深めたり、伝統的なお寺や神社を見物したりすることだそうよ。」とルシアさんは言った。しかし、僕はその頃、まだN3の学習者だったから、すべての資格を満たすか迷っていて、日本大使館にメールを送信した。メールで、次なる資格を教えられた。 1.海外の日本語教育機関等で現在日本語を学習している者または学習を修了した者。 2.申請の時点で初級(原則として 300 時間以上履修)を修了あるいはそれ以上の能力を有すると認められる成績優秀な者。研修の実施上、本研修の選考試験問題 50 点以上の日本語能力を有することを目安とする。日本語能力試験であれば N4 または旧日本語能力試験 3 級以上の保持者とする。(実は、能験N2に合格したのは不可欠だ)。 3.全期間を通じて研修に参加できる者。 4.現在日本語教師でない者。 5.申請の時点で、日本語教師として採用されることが決定していない者。 6.在外公館内部の関係者とみなされる者でない者。 7. 研修開始日現在、満 18 歳以上 55 歳未満の者。満 20 歳未満の場合は、保護者の了解を得ていること。 8.研修開始日現在で過去 5 年以内に日本に継続して 7 日間を超えて滞在したことがない者。 9.心身ともに健康な者。 10. 日本の義務教育を3年以上受けた者でない者。 11. 日本と国交のある国の国籍を有し、かつ、申請を行う在外公館または国際交流基金海外拠点所在地の国籍または永住権を有する者。 しかも、採用試験は毎年4月末の予定だとのことだ。僕がまだ満たさなかった最も大事で唯一の資格はN2合格証明書を獲得することだったので、申し込むことができなかったのだ。能力試験に受かっ

孤独を紛らわせる付き合い

今日は部屋を片付けたら、やや台無しになったノートを見つけて、懐かしかったので、読んで、このブログで共有する。 「2008年12月9日水曜日午後9時。 天気は曇りで、とても暑い。 名前はヴェホ・フアン・カルロスだ。今日は初めて日記を書き始めた。 1989年7月8日にアルゼンチンで生まれた。幼い頃は気分が凄く良かったけど、今は少し悪い気分になった。つまり、1998年まで嬉しかった。あの当時、おばあちゃんが死去したからだ。人間も死ぬことが初めて解ったものだ。2001年にはおじいちゃんも亡くなった。この時に、人がどうやって死ぬか見つめたことがある。とても辛くて、悲しかったものだ。この悲しみは未だに消えない。恋人を持っても、消えないと思う。 今まで、本当に3回だけ恋した。マレナちゃんには初めて恋したけど、決して彼女と話してみなかった。彼女は美少女で、僕は近寄るにつけて、胸がワクワクして、舌がもつれて、話せなかった。 日本語を勉強し始めた時、ダニエラちゃんと知り合った。金髪の髪の毛をした女の子だった。僕はその時、16歳で、彼女は19歳だった。でも、初めて会った時に一目惚れしたわけじゃなかった。ある日、彼女のことを夢見て、恋した。その夢では、僕は大きい図書館に居て、ダニちゃんに会って、抱きしめた途端、彼女に恋するようになった。その夢を見たからこそ未だに愛し続けている。でも、片思いだった。今年は久しぶりに彼女とチャットしたら、結婚して、2ヶ月の赤ちゃんがいると話してくれた。僕が「おめでとう」と言っても仕方がなかった。けれど打ち込んでしまった。前回彼女に会ったのは2007年3月24日だった。その日からはもう二度と会えなかった。ただし、感じることを習った。今は寂しいことだ。 今年もラ・マタンサ大学で情報理学を勉強し始めて、そこで従兄弟とも知り合った。名前はエミだ。彼は入学試験の準備のクラスで綺麗な女の子と知り合った。 大学の1年生の時、僕の教室は55号室で、従兄弟のは80号室だった。僕の教室にはその女の子がいた。実は僕はまだ会ったことがなかった。彼女を見た時、「スタイルがいいな」と思った。それから、席のそばに座って、話しかけた。名前はカンデラだった。そして、カンデちゃんは携帯電話番号やメールや住所等を教えてくれた。嬉しくなったよ。でも、ある日、エミ君はカンデちゃんが僕の教室

葛飾北斎

ウキヨと言う言葉は平安時代から鎌倉時代にかけて出て来た言葉である。そのうち、仏教や無常観で辛い人生と言う意味として使われた。それから、江戸時代に入って人々はスーパーポシティブの意味として使うようになって浮世と言う言葉が生まれた。浮世絵の代表的な画家の一人は葛飾北斎である。この絵師の作風は日本人の先祖の日常生活や習慣などを表している。その作品は欧州に普及し、パリに入って、フィンセント・ファン・ゴッホのような画家が北斎の作品に憧れて西洋芸術に浮世絵の影響を与えた。北斎の最も有名な浮世絵は神奈川沖波裏である。 現在、日本でもポピュラーな北斎の作品は世界中でも知られる。浮世絵の精神はさらに現代の漫画とアニメの作成にも影響を与えているのである。

アルゼンチンの8月と9月の祭り

アルゼンチンでは8月から9月にかけて、大切な日にちを祝う。8月の17日にはホセ・デ・サン・マルティンの命日を祭日として祝う。サン・マルティンは1778年2月25日に生まれ、1850年8月17日に死去した。彼はこの国出身の軍人で、政治家だった。アルゼンチンはもちろん、チリとかペルーといった南米の国を独立させるために、活躍した。国家のお父さんとして知られる有名人なのだ。回忌は休日だ。学校では校長の演説と生徒達の演出により、偉業をたたえる。偉業のうちの有名なエピソードはアンデス山脈超えのことだ。 1817年にロス・レアリスタスというスペインの軍隊からチリを解放させるために、サン・マルティンはラス・プロビンシアス・ウニダス・デル・リオ・デ・ラ・プラた、すなわちラプラた合州国「近代、アルゼンチン共和国」の軍隊と共にアンデス山脈を超えた。複数の戦闘の末に、チャカブコで勝利して、チリを独立に導いたのだ。 それから、8月にも子供の日が祝われる。子供の権利を尊重し、成長を祝う事を目的にした記念日は第3週目の日曜日に制定されている。まず、第1週目の日曜日だったが、年によっては、給料日前となるため、1990年代に第2週目に変更された。ただし、2011年に当時、全国で選挙があったため、第3週目の日曜日に変わった。 その日、家族が集まって、子供がプレゼントをもらう習慣がある。子供達にとっては、嬉しい日なのだろう。 9月の11日には教師の日が祝われる。当日、授業がない。9月11日は第7代大統領で、教育者、作家だったサルミエントが亡くなった日だ.サルミエントは1811年に誕生し、1888年に死亡し、国立の教育と文化と科学的進歩を推進するため、活躍した偉人だ。各小学生は先生にプレゼントを贈るげるが、学生同士お金を貯めて、先生に贈り物をする場合がある。各学校では前日の9月10日に先生を喜ばせると、学生等はたくさん練習して、歌や楽器の演奏や演劇を披露する。最後に、学生の日と春の日がある。9月21日同じ日にちに学生の日と春の日を祝われるのだ。学生の日というと、サルミエントの遺体がその当時はパラグアイから本国に送還されたから、学生の日は9月21日に制定される。 春の日は冬から春の季節の移り変わりを祝う事を目的として、高校生達と友達は花見のように、公園で集まって、ピックニックを行って、おしゃべりを

北朝鮮、社会主義者の夢

社会主義的な政府、すなわち独裁政権は平等に資産などを民衆と共同し、誰もが同等の取得や好機に恵まれ、教育を受け取り、貧しくない生活を送らせるという口実をもって、民主を圧伏して、封建社会を創設してしまう。つまり、社会主義者というものは王政を嫌うが、独裁政治は好む。独裁者は国王のように私服を肥やして暮らして、国民は貧しく生活するという政府を促進する。 金正恩らは社会主義独裁体制のもとで北朝鮮を治める。金正恩以外、国民は自由に出国や入国したり、自分の資産を所有したり、表現の自由を行使したりしてはいけない。日毎に、人権が侵害されている。人が自分の意見を述べたら、警察に逮捕され、刑務所に連れて行かれて、拷問されるもので、北朝鮮人は政権に縛られる。絶望的な人は中国に逃げるが、不運な人は強制送還されてから、北朝鮮の長官に牢屋、もしくは強制収容所に送られるこもある。強制収容所では人々を死ぬまで、拷問し、働かせるのは日常茶飯事だ。有名な強制収容所はオンソングだ。逃げられた生存者によると、 約20万人の人質がいて、懲役を実施させるそうだ。驚くことに、捕らわれの家族もいるとのこだ。以前言った通りに、いろいろな拷問によって苦しませる。例えば、ある女性に毒を盛るキャベツの葉を食べさせて、鼻、口、肛門から血が出て、凄く苦しんだ末に死んでしまう。もし、食べることに反したら、家族を脅かす。 一方、家族を拷問するために、子供に毒を盛って、死にかける時、もちろん両親は蘇生しようとする。失敗したら、子供が死去したという悲しみに暮れても仕方がない。 現代にこんな事件が起こるのはなぜなのだろうか。社会主義がこの世に生み出せるのは独裁政治の促進のみだ。政治家は国民のニーズに答えて、国を治めるどころか、国民の期待に反して治めるばかりで、国の将来を損なってしまう始末だ。 社会主義体制はソ連とか、中国とか、ベトナムといったいろいろな国で失敗したからといって、未だに北朝鮮、あるいはキューバのような国の方針を促進したい人がいることを聞くにつけて、開いた口が塞がらない。中南米の中で、そんな独裁政権の国のように、ベネズエラがなりつつある。しかし、真向から否定するのではなく、社会主義の教育と保険制度という利点を資本主義に加えるべきなのは私の意見だ。資本主義なしの社会主義は独裁政治で、社会主義なしの資本主義は猛悪になるもの

日常生活を再評価

この間、仕事の面接があった。通信教育の塾での事務処理に関する仕事だった。条件は案の定、あまり良くなかった。不法就労だし、給料も安いし、労働時間は月曜~土曜 9:00~18:00時だったけど、とにかく受け入れた。その面接の2日後、トライアルを受けた。通常の仕事のつもりで、一日中働いた。うまくいけば、雇用されるのだ。 痛い目に遭った。職場を始めとして、事務所の窓からは駐車場が見えるだけで、空も木も見えなかった。自然に触れられる場所ではなかったのだ。自然に触れらる場所にいると、不安や神経質な気持ちをほぐすことができる。だから、そういった雰囲気の中で働きたいのだ。 それに、その職場では携帯電話を使ってはいけなかった。おまけに、労働時間が終わるまで、塾を出てはいけなく、昼御飯を買いに行けなかった。自分のお弁当を持っていかないといけない。俺は新人で、会社の規則を知らなかったので、例外的に食べ物を買に出る許可をもらった。それから、ルーチンワーク、すなわち、あまり頭を使わない仕事なので、俺は働きながら、生涯について反省し、色々な事を考え直した。 それは俺の短所の一つだ。つまり、頭を使ってないと、人生を考え直し始めて、がっかりしてしまうのだ。生まれたときから今までのことまでをも考えていた。もっとも考え込んでいたのはどうして、この道を選んでしまったかということだった。悪かったこと等を反省したり、幼児期の嬉しかったことを思い出したりすれば、するほど、落ち込んだ。 楽しい生活を送っていないことに気づいたのだ。 仕事が終わった後、課長に呼ばれて、私の優秀な仕事ぶりをほめられ、翌日「木曜日」から仕事に来るように言われた。翌日、一流企業での面接があったから、健康診断を受けると嘘をつき、金曜日で問題なければ、仕事にこれると説明した。すると、課長は上司と相談した上で、いつから仕事を始めるか電話で連絡すると約束した。 しかし、その連絡は 未だに 来ない。 さらに、そのトライアルのおかげで、日常生活のことを以前より評価することを学んだのだ。これからは、快晴の空や木々を見つめたり、綺麗な空気を味わう。この度、ペット屋へ餌を買いに行ったら、いくつかの金魚鉢を見て、くぎづけになった。その時、やすらぎを感じて、ペット屋の店員の仕事がうらやましいという気持ちがわいてきた。それから、その周囲を歩き続

増税、世界的不景気の影響

いつもの通りに、朝日新聞の見出しを見たら、日本の消費税が4月より、5%から8%へ上がるという記事を読んで、驚くとともに、ややがっかりしてしまった。新聞によると、増税の理由は国の財政を守ることから、値上げが必然になったのだそうだ。それから、来年もさらに2%上がる予定だ。しかし、低所得者の負担を考えて、政府は一人1万円を支給して、児童手当受給世帯に子供一人あたり1万円も支給する。また、家を買いたい人向けに、住宅ローン減税を拡大するとのことだ。 例の消費税の増税は日用品などに著しい値上げを与えるものだ。例えば、380円のコーヒーが400円になるのだ。とにかく、買うしかないらしい。日本は物価がもっと高くなるから、たまらない。 一方、アルゼンチンを比べると、ここの消費税は21%だ。ただし、この税金を免除した品目もある。 免除される品目は次の通りだ。 ☆書籍、雑誌、新聞 ☆切手 ☆公共乗り物の切符、劇場のチケット ☆水 ☆添加物を使わないパンと牛乳。(買い手は最終消費者、国立、県立、または市立政府、健康保険と学校施設の場合のみ) ☆輸出物 免除されるサービスは次の通りだ。 ☆公立教育に合った私立学校のための資金の調達 ☆健康保険のための借入の調達 ☆100キロメートル以下の移動距離の国内外の乗り物の運賃と人々の国際乗り物 ☆宝くじ会社のための資金の調達 ☆家庭サービスのための資金の調達 残念ながら、アルゼンチンはその例外があるのに、物価もどんどん高くなる始末だ。日本の場合はそんな影響というものは国際危機の影響だけだが、もっと苦しい以前の状況を乗り越えた日本人だからこそ、頑張って、解決できるだろう。

機体の神隠し

3月8日未明239人の搭乗したマレーシアの飛行機が消息を絶ち、行方不明になったとメディアが報じた。2週間程が経ち、消えた理由も飛行機の行方もまだ分かっていない。それで、テロ事件から宇宙人に誘拐されたという仮定までいろいろあるそうだ。マレーシア政府は、検討した上、飛行機がインド洋に墜落したとみられると発表した。しかし、機体の残骸と乗客の遺体の行方は未だ解明されてない。搭乗者の家族に誰も生き残らなかったと伝えたが、生存者がまだいる可能性があるのだろうか。   1979年に学生とラグビー選手合わせて45人が搭乗した、ウルグアイ航空の飛行機がアンデス山脈に墜落した。捜索がうまく行かずに、皆死亡したというニュースが広まった。事故の約40日後、村人がその周辺を歩いたら、様子の怪しい人々に偶然会って、最初にびっくりしたそうだが、すぐに航空事件の生存者であることに気づいて、チリの官庁と通信して、経緯を届け出た。45人のうち12人が生き残れたらしい。生き残った人に「どうやって生存したかな」と尋ねられた時、驚くべきことに、「生存方法の一つは死人を食うことだった」と答えた。   マレーシア航空事故では「アンデスの奇跡」と呼ばれるそのエピソードが果たして繰り返されるのだろうか。希望をなくさず、捜索を深めて、祈るしかないと思う。

心に残ったとっておきの思い出

「私は実家に行ってみた。私は小さい頃は、作業場は近所にある別の家の一階で、とても広いところだった。他の職人さんたちが仕事帰りにあいさつをしに寄ったり、近所の人が通りかかる度にちょっと声をかけていったり、仕事も忙しくても手間がかかるから活気があってとてもにぎやかだった。だんだん景気が悪くなって、父の事務所は父だけになり、作業場も家の中にこしらえた。たまに手伝いの人が来る程度で、どんどんさびれていった。それでも、仕事をしている父を見るのは好きだった。母が一日に何回かお茶を運んでいくと、父は手を休める。忙しいからそこに置いとけ、ということは滅多になかった。そして父と母がたわいないおしゃべりをしている声が、台所のほうにかすかに聞こえてくる様子も大好きだった。   しかし父のいなくなった実家は誰も住んでいない家特有の荒れて淋しい感じがして、父の作業場には墓石もひとつも残っていなかったし、道具がひとつもなかった。駐車場の車ももちろんなかった。 住居の中はそのままで、母が捨てられなかった古いトースターだとか、花柄のポットだとかが、薄暗い台所に息をひそめていた。なんだかやりきれなくなった。もうここでは誰かに何かが終わってしまったのだ。何もかも失われてしまった。」 と。 よしもとばなな著者の「アルゼンチンババーア」という小説からのこの引用を読みながら、自分自身の幼児期のことを思い出した。母方のおばあちゃんの家に泊まることが大好きだった俺は、上記の引用を読んで感じた懐かしい気持ちを込めて、俺の過去のエピソードを話そうと思う。 あのクリスマスの日は記憶に刻まれている。おばあちゃんと過ごした最後のクリスマスだったからだ。あの日、家に着いた時は嬉しそうに迎えてくれたものだ。ジャスミンの香りが漂う部屋に入ると、飾ってあったクリスマスツリの下に置いてあるプレゼントを見て感動したことを覚えている。俺はプレゼントを開けるのが待ち遠しかった。アルゼンチンでは、プレゼントを開けるには、時間が零時になることを待たなくてはいけないが、幼い子供の俺は時間が経つにつれて、我慢ができなくなってきたのだ。 一晩中花火を見つめて、おばあちゃんの御馳走を味わって、そのクリスマスは楽しく過ごした。翌年、おばあちゃんが亡くなり、もう二度と素晴らしいクリスマスは過ごせなくなった。しかも、それきりおばあちゃん

日本語能力試験合格結果通知

能力試験N2を受けることを目標に、毎日語彙とか、文法表現とかを覚えたり、記事を読んだり、することにした。朝御飯を食べてから、していた。まず、「能力試験2級に出る」という本を一年間使って、言葉と漢字をほとんど学ぶ事にした。毎日一つの新たな課をマスターできるようにして、前の課も練習した。それで、すごく大変だった。その後、「中級へ行こう」とか、「みんなの日本語III」といった教科書もいろいろ使った。翌年、すなわち去年の夏に文法表現を中心として、出版社に勤めのかたわら、「どんな時どう使う 日本語表現文型500」というテキストを買って、一ヶ月にすべて覚えられるようになった。 俺から見ると、語彙の勉強ほどあまりややこしくなかったな。それから、学校の授業ではもちろん先生と会話と聞き取りを猛練習したり、以前学んだことも使い分けるために応用したりしてしまった。 一日たりとも日本語に触れなかった日はなかったのだ。しかし、試験の後、月日が経つにつれて、間違えたところと正解したところという思いが交錯して、不安な気持ちが湧いてきた。やっと、待ちに待った結果通知が届いた。 一生懸命勉強したからといって、不合格だろうと思いきや、受かってしまった。この成績は努力の結実というものだ。 今後もN1に向けて頑張ろうと思う。

浦島太朗と特殊相対性理論

この都会での今日の目覚めは、いつもとは違っていた。夢うつつのまま、「地球上の生命に、また今日という日が始まる。」とつぶやいた瞬間、浦島太郎の物語が頭に浮かんだのだ。何故思い浮かんだのか分からないが、おそらく、遠く離れた家族に会いたいという無意識の気持ちが、夢の続きとして、浦島太郎の物語に形を変えて頭の中に現れたと思うのだ。 私は、古風な日本語で書かれている浦島太郎の冒険物語をもう一度読み返してみた。物語のクライマックスにさしかかったところで本を閉じた。そこは、物語の最も重要な箇所であり、時代が急激に進む箇所なのだ。浦島は故郷から三年間だけ離れていたと思っていたけれど、帰った時に、三百年が経ったことに気づいたのだ。しかし、その現象はどう証明するのか。 例の物語には解説がない。この物語に論理的な説明が見つけられるか否か、また、この物語は、実話であるかを検証することにした。どこから始めるとしようか。浦島は竜宮城に居て三年だけを感じたのだが、陸では三百年も経ったのは何故なのか。竜宮城の場所を海底深くにあることと設定したのは、実はあの冒険を記した古代の人が竜宮城の場所を明確に語れなかったためではないだろうか。それは、竜宮城が宇宙にあることの暗示ではないだろうか。浦島は亀に乗って、数日か数月で目的地に着いたが、実は本物の亀ではなくて、宇宙船だったのではないだろうか。 浦島太朗の物語から、まだよく分からない空間と時間の関係を解き明かせればと考えているのだ。だが、浦島太郎の物語が語る空間と時間の概念は、私にはニュートン力学で説明出来ない。それでは、これはどう説明するのか。私は満月をしばらく見つめた。月の光はとても眩しかった。私は考えるのを止めていた。ユーレカ! 突然、頭の中に「月の光は太陽の反射光である。」という現象が思い浮かんだ。そうだ。私達の惑星で見ている太陽は、8分前の太陽なのだ。 そして、アインシュタインの特殊相対性理論を思い出した。その理論を勉強するために、インターネットで書籍を検索した。タブレットにダウンロードして、一晩中読みふけった。アインシュタインの特殊相対性理論によると、物体Bが光の速度に近い速さで移動し、物体Aが物体Bよりも遅い速度で移動しているとすると、物体B上では、物体A上よりも時間の進み方が多いというのだ。つまり、Bからみると、光の速度のに近い速度