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浦島太朗と特殊相対性理論

この都会での今日の目覚めは、いつもとは違っていた。夢うつつのまま、「地球上の生命に、また今日という日が始まる。」とつぶやいた瞬間、浦島太郎の物語が頭に浮かんだのだ。何故思い浮かんだのか分からないが、おそらく、遠く離れた家族に会いたいという無意識の気持ちが、夢の続きとして、浦島太郎の物語に形を変えて頭の中に現れたと思うのだ。 私は、古風な日本語で書かれている浦島太郎の冒険物語をもう一度読み返してみた。物語のクライマックスにさしかかったところで本を閉じた。そこは、物語の最も重要な箇所であり、時代が急激に進む箇所なのだ。浦島は故郷から三年間だけ離れていたと思っていたけれど、帰った時に、三百年が経ったことに気づいたのだ。しかし、その現象はどう証明するのか。

例の物語には解説がない。この物語に論理的な説明が見つけられるか否か、また、この物語は、実話であるかを検証することにした。どこから始めるとしようか。浦島は竜宮城に居て三年だけを感じたのだが、陸では三百年も経ったのは何故なのか。竜宮城の場所を海底深くにあることと設定したのは、実はあの冒険を記した古代の人が竜宮城の場所を明確に語れなかったためではないだろうか。それは、竜宮城が宇宙にあることの暗示ではないだろうか。浦島は亀に乗って、数日か数月で目的地に着いたが、実は本物の亀ではなくて、宇宙船だったのではないだろうか。

浦島太朗の物語から、まだよく分からない空間と時間の関係を解き明かせればと考えているのだ。だが、浦島太郎の物語が語る空間と時間の概念は、私にはニュートン力学で説明出来ない。それでは、これはどう説明するのか。私は満月をしばらく見つめた。月の光はとても眩しかった。私は考えるのを止めていた。ユーレカ! 突然、頭の中に「月の光は太陽の反射光である。」という現象が思い浮かんだ。そうだ。私達の惑星で見ている太陽は、8分前の太陽なのだ。


そして、アインシュタインの特殊相対性理論を思い出した。その理論を勉強するために、インターネットで書籍を検索した。タブレットにダウンロードして、一晩中読みふけった。アインシュタインの特殊相対性理論によると、物体Bが光の速度に近い速さで移動し、物体Aが物体Bよりも遅い速度で移動しているとすると、物体B上では、物体A上よりも時間の進み方が多いというのだ。つまり、Bからみると、光の速度のに近い速度で旅をしたら、時間が遅れるということだ。


浦島太朗の話を鵜呑みにせずに、海の奥に向けて旅行しないで、宇宙に向かうとしよう。特殊相対性
理論をもとに考えると、浦島は光の速度の87%によって、地球から、五光年に位置しているXところへ向けて離れた。

時間の進みが遅くなるので、実際は四ヶ月で着く。帰った時に、四ヵ月もかかる。往復八ヶ月だ。その理由で、地球から観察したら、帰りの旅行は148、5年かかったということだ。つまり、地球に住んでいる人から見ると、浦島が竜宮城に行くために148、5年をかけ、竜宮城に3年滞在した後、故郷に戻るためにも148、5年もかけたわけだから、合計三百年が経ったわけだ。でも、浦島太郎にとっては、三年と八ヶ月ぐらいの旅だけだった。

言い換えると、浦島太朗の話は、特殊相対性
理論が作用した現象を書き記す物語として、明白な事例のになる。人間が過去肌に感じたその現象に、アインシュタインが理論的な証明をあげるまで、約千年を待たなくてはならなかったのだ。ひょっとすると、この物語とは神話じゃなくて、自然の法律に合う実話なのかもしれない。

さて、「亀」、「竜宮城」、「水中の旅」というキーワードにどんな暗号が隠されているのか。私が今後、理論的な解説を行ってゆく予定である。浦島太朗がアインシュタインの理論を教える良い例だと子供達に言えるだろう。

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