先月、日本語の先生にアルゼンチンのある時期の歴史について記すように言われた。ウィキペディアの記事をいくつか読んだ末、カセロスの戦いについて書くことにした。どうしてその戦闘を選択したのかあなた達がきっと自問しているでしょう。その戦いの結果が国を統一したからです。 フアン・マヌエル・デ・ロサス氏「1829年~1852年」のブエノスアイレスの独裁政権は19世紀のアルゼンチンでは、「カセロスの戦い」という未曽有の戦闘に落ちりました。ロサス氏の政府は、全国組織と憲法を確立することに反対しました。なぜから、全国にブエノスアイレスの関税収入を分けるべきですから、ブエノスアイレスの利益が減ってくるし、覇権も失うおそれがありました。 したがって、エントレリオスの知事のウルキサ氏は1851年に、「プロヌンシアミエント」という書類を書くことにしました。その契約には、ロサス氏の辞任を受理し、エントレリオスに国際関係を任せるといった条約がありました。その頃、ブエノスアイレスが国際関係は統制しました。 他の言葉で言いますと、エントレリオスの領主は、ブラジル、ウルグアイとコリエンテス県の軍隊を味方につけ、「大軍」を樹立して、ロサス氏に宣戦を布告しました。 戦闘は1851年2月3日にブエノスアイレス市の郊外でのカセロス貴族の牧場で行われましたので、カセロスの戦いと称しました。ロサス氏は34000の軍人と60挺の鉄砲を集中するに引き換え、ウルキサ氏は24000人の軍隊を持っていました。ロサス氏の軍備の優位は明らかであったも関わらず、6時間ぐらい奮闘して、ウルキサ氏の軍は勝利しました。 ロサス氏はイギリスへ逃げました。その国で、数年後死去しました。 その勝負はアルゼンチンの歴史にとって転換期であった。国は統一されて、アルゼンチン共和国が生まれました。
今日の午後、デモ行進にも関わらず、仕事の手続きのため、地獄のようなブエノスアイレス市に出た。地下鉄に乗っていたら、ボロボロの服を着ている貧乏な女の人が私のそばに座ってきた。「自殺を図りたい」と話し始めてくれた。次の対話があった。 「何があったの?」 「こんな苦しい生活を送っているけど、もう我慢できなくて、将来がわからないし、娘にいい生活を送らせてあげられない!」と答えた。 「あなたが自殺したら、誰が娘さんを守るんですか?」 「彼女と一緒に死のうと思っている。」 「でも、彼女は生きたい。誰にも未来がわからない。彼女には、将来もあるよ。」 「娘は2歳で、現実さえ理解しない。どうしようもない。盗みに出るのか、売春するのか、自殺するのか。。。」 「盗みをはたらけば、犯罪者になって、社会はあなたを嫌いになるのはもちろんだね。死ぬことにしたら、いい人として認められることを求めたほうがいいと思う。娘はあなたを愛してる。」と私は別れて、終点で降りた。 まるで、死であるかのように、あのお母さんに話してもらった気がした。私は彼女が死なないと決めた気がした。