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増税、世界的不景気の影響

いつもの通りに、朝日新聞の見出しを見たら、日本の消費税が4月より、5%から8%へ上がるという記事を読んで、驚くとともに、ややがっかりしてしまった。新聞によると、増税の理由は国の財政を守ることから、値上げが必然になったのだそうだ。それから、来年もさらに2%上がる予定だ。しかし、低所得者の負担を考えて、政府は一人1万円を支給して、児童手当受給世帯に子供一人あたり1万円も支給する。また、家を買いたい人向けに、住宅ローン減税を拡大するとのことだ。

例の消費税の増税は日用品などに著しい値上げを与えるものだ。例えば、380円のコーヒーが400円になるのだ。とにかく、買うしかないらしい。日本は物価がもっと高くなるから、たまらない。


一方、アルゼンチンを比べると、ここの消費税は21%だ。ただし、この税金を免除した品目もある。


免除される品目は次の通りだ。

☆書籍、雑誌、新聞
☆切手
☆公共乗り物の切符、劇場のチケット
☆水
☆添加物を使わないパンと牛乳。(買い手は最終消費者、国立、県立、または市立政府、健康保険と学校施設の場合のみ)
☆輸出物

免除されるサービスは次の通りだ。

☆公立教育に合った私立学校のための資金の調達
☆健康保険のための借入の調達
☆100キロメートル以下の移動距離の国内外の乗り物の運賃と人々の国際乗り物
☆宝くじ会社のための資金の調達
☆家庭サービスのための資金の調達
残念ながら、アルゼンチンはその例外があるのに、物価もどんどん高くなる始末だ。日本の場合はそんな影響というものは国際危機の影響だけだが、もっと苦しい以前の状況を乗り越えた日本人だからこそ、頑張って、解決できるだろう。

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