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5月, 2014の投稿を表示しています

恩師への想い

昨日、悲しいお知らせが届いた。驚くべきことに、母校の体育の先生だったブルーノさんが亡くなったのだ。仲間の話によれば、49歳で、腎臓癌によって死去したとのことだ。彼は僕が高校生の時の僕の体育の先生だった。準備運動、ストレッチ、身体検査のような、体育と健康の大切さを教えてくださった。僕は運動をする時、 未だに 恩師の授業が頭の中に浮かんでくる。 先生のおかげで、体育が重視だと学んだ。学校での良い思い出の中には、いつもはブルーノさんがいたと思う。 こっけいな彼もモリア・カサンの娘の水泳の先生だったこと、マラドーナと共にサッカーをしたこと、パッチ・アダムスとも知り合ったことなどの話をしてくださったものだ。 楽しい人だから、どんな時に真面目に話していたかどうか分からなかったので、学生の僕を時々迷わせたのだ。 この素晴らしい世界への第一歩を後押ししてくださった逸話と経験も豊富な恩師のために、この投稿を書いた。彼の教訓が心に刻まれているのだ。いろいろありがとうございました。

友好の縁

2007年の高等学校の授業の最後の日では、「今日からは、自分たちで決めたことによって、僕等の将来が良くも悪くも変わるのはもとよりですが、何よりも距離が遠くなっても、この縁や関係が絶えないように!」とだれかが言った。 この何年間にわたって、色々な出来事が起こった。クラスメートの何人かは子どもができて、家族を作ったし、何人かも色々な職場や看護師やトラックの運転手といった職業で働いているし、他は頭の腫瘍が見つかって重病を苦しんだ間に、完治した。学校の他の知人はバイク事故のため、一本の足をなくした。その後、大手のスーパーのトラックを暴行して、品物を盗もうとしたら、警察によって逮捕されて、3年間ぐらい刑務所にいて、高い保釈料を納めて、自由になったとのことだ。今は父親になったそうだ。何人かは麻薬中毒者だそうだ。おかげさまで、大学に進めた人もいるよ。 僕は学生の時、クラスメートと一度も出かけたことがない。僕の性格、生活ぶり、好き嫌いが何人かと合わなかったため、その何人かと仲が悪かったのをきっかけに、僕は皆に怒ってしまったというわけだ。ひきこもりのような生活を送ってしまった。学校に通うためだけに出ていた。今、仲間に対して怒ってしまったことをちょっと後悔している。日本語の勉強をし始めたことが契機となって、僕はだんだん気さくな性格になってきたのだと思う。情報理学の専門を勉強し始めた時も、新しい人々と知り合って、違う現実や他の人の体験を知ったりしたから、考え方を切り変えられた。 実は学校の仲間と一度出かけたことがあることを思い出す。建築に関する実習をやるために、四人のグループで、色々な建築様式の建築物の写真を撮ったり、取材をしたりすることを目標に出かけねばらなかったのだ。仲の良かったクラスメートと集まって、出かけた。首都に行って、カサ・ロサーダ「大統領府」、カビルド「国家が生まれた場所、すなわちこの国が自治を得た集会が行われた場所」、テアトロ・コロニアル「コロニアル劇場」、フラガタ・リベルター「リベルター船」といった有名な場所の写真を撮った。 本当に楽しい日を過ごしたが、帰りのバスに乗った時に本当の冒険が始まった。バスに乗って、平原の所を通過したとたん、突然、バスが石を投げて襲われた。窓のガラスが割れたし、一人の乗客も顔をけがした。泥棒はバスを暴行するために石を投げたが、運転手は

後藤先生の思い出

私は日本語の先生がたくさんいた。その一人が後藤先生だ。彼女の教え方は日本の学校と同じぐらいだったと思う。授業を始める前に、生徒が起立して、「礼、お願いします」と言う同時に、礼をしていた。それから、授業が終わる前に、今日習ったことについて感想や意見を述べさせる。最後に、私達生徒が礼をしていたことを思い出す。私は日本にいるように感じていた。時々、黙想もしていた。ある日、先生と書道のクラスがあって、5月に関する好きな漢字を選んで、半紙に筆で書いてから、黙想。目を閉じて、選んだ漢字等について考えさせた。私は「五月の愛」と書いて黙想した。黙想しながら、女友達の気持ちが分かった気がした。黙想の後、先生は黒板の前に立って、選んだ漢字についての感想を一人一人言わせた。僕は女友達と先に前に出て「愛を感じるのが好きですから、この漢字を選びました」と言ったか言わないかのうちに、その女性は「ねえ、それはあたしも言うのに」と大声で言ってくれた。私は信じられなかった。彼女が考えていたことが分かるようになったのだ。黙想というものは以心伝心を促進する有効的な方法のことだと思う。 今日は日本語のメモを整理したら、後藤先生の授業で書いたこの作文を見つけた。 「 私 の 妹 僕の家族は4人です。両親、妹と僕です。妹はセシリアです。誕生日は10月の14日で、年は21歳です。妹はおしゃべりですが、やさしいです。彼女は髪の毛が茶色で、目が黒いです。それに、痩せていて、身長は1.70ぐらいメトルだと思います。勉強は自分の部屋でずっと集中してやっています。 子どもの頃天気がいい日にテニスをしていた事を思い出します。一日中家の庭で遊んでいました。時々私が勝ちました。5歳のときは遊戯的な女の子でした。ある日、家族とスーパーに買い物に行って、買うものを払うときレジテープに指を挟んでしまいました。みんなびっくりしましたが、おかげさまで痛まらかったんです。大人になってきたときといえば調理師になりたがりますが10歳ぐらいのときは目医者になることを決めた。とうとう、ファッションデザインの講座を始めて、高校学校を卒業した後で、ジャーナリストになるように大学に進みました。 妹はファッションデザイナーです。そして英語とコミュニュケーションを勉強しています。デザイナーとしてシェラトンホテルで仲間とファッションショーを開き有

国際交流基金奨学金の試験での体験

僕の夢の一つがいつか日本に行くことなのは誰だって知っているだろう。僕の友達のうち何人かはその夢を叶えた。その一人はルシアと言う。彼女は奨学金を受け取って、日本を訪問することができた。ルシアさんは日本語を勉強することを目標に僕と同じ日本語学校に通っていたが、僕は彼女が奨学金をもらったというニュースを聞いた時、すぐに尋ねた。「おうっす!ルシアさん、日本に行くって知ったけどさ、どんな奨学金受け取ったの?」と聞いた。「フアンさん、成績優秀者っていう国際交流基金の奨学金なの、日本滞在って2週間よ」と答えた。「その奨学金の目的さぁ、何?」とすぐに問い詰めた。「内容は日本語の勉強を深めたり、伝統的なお寺や神社を見物したりすることだそうよ。」とルシアさんは言った。しかし、僕はその頃、まだN3の学習者だったから、すべての資格を満たすか迷っていて、日本大使館にメールを送信した。メールで、次なる資格を教えられた。 1.海外の日本語教育機関等で現在日本語を学習している者または学習を修了した者。 2.申請の時点で初級(原則として 300 時間以上履修)を修了あるいはそれ以上の能力を有すると認められる成績優秀な者。研修の実施上、本研修の選考試験問題 50 点以上の日本語能力を有することを目安とする。日本語能力試験であれば N4 または旧日本語能力試験 3 級以上の保持者とする。(実は、能験N2に合格したのは不可欠だ)。 3.全期間を通じて研修に参加できる者。 4.現在日本語教師でない者。 5.申請の時点で、日本語教師として採用されることが決定していない者。 6.在外公館内部の関係者とみなされる者でない者。 7. 研修開始日現在、満 18 歳以上 55 歳未満の者。満 20 歳未満の場合は、保護者の了解を得ていること。 8.研修開始日現在で過去 5 年以内に日本に継続して 7 日間を超えて滞在したことがない者。 9.心身ともに健康な者。 10. 日本の義務教育を3年以上受けた者でない者。 11. 日本と国交のある国の国籍を有し、かつ、申請を行う在外公館または国際交流基金海外拠点所在地の国籍または永住権を有する者。 しかも、採用試験は毎年4月末の予定だとのことだ。僕がまだ満たさなかった最も大事で唯一の資格はN2合格証明書を獲得することだったので、申し込むことができなかったのだ。能力試験に受かっ

孤独を紛らわせる付き合い

今日は部屋を片付けたら、やや台無しになったノートを見つけて、懐かしかったので、読んで、このブログで共有する。 「2008年12月9日水曜日午後9時。 天気は曇りで、とても暑い。 名前はヴェホ・フアン・カルロスだ。今日は初めて日記を書き始めた。 1989年7月8日にアルゼンチンで生まれた。幼い頃は気分が凄く良かったけど、今は少し悪い気分になった。つまり、1998年まで嬉しかった。あの当時、おばあちゃんが死去したからだ。人間も死ぬことが初めて解ったものだ。2001年にはおじいちゃんも亡くなった。この時に、人がどうやって死ぬか見つめたことがある。とても辛くて、悲しかったものだ。この悲しみは未だに消えない。恋人を持っても、消えないと思う。 今まで、本当に3回だけ恋した。マレナちゃんには初めて恋したけど、決して彼女と話してみなかった。彼女は美少女で、僕は近寄るにつけて、胸がワクワクして、舌がもつれて、話せなかった。 日本語を勉強し始めた時、ダニエラちゃんと知り合った。金髪の髪の毛をした女の子だった。僕はその時、16歳で、彼女は19歳だった。でも、初めて会った時に一目惚れしたわけじゃなかった。ある日、彼女のことを夢見て、恋した。その夢では、僕は大きい図書館に居て、ダニちゃんに会って、抱きしめた途端、彼女に恋するようになった。その夢を見たからこそ未だに愛し続けている。でも、片思いだった。今年は久しぶりに彼女とチャットしたら、結婚して、2ヶ月の赤ちゃんがいると話してくれた。僕が「おめでとう」と言っても仕方がなかった。けれど打ち込んでしまった。前回彼女に会ったのは2007年3月24日だった。その日からはもう二度と会えなかった。ただし、感じることを習った。今は寂しいことだ。 今年もラ・マタンサ大学で情報理学を勉強し始めて、そこで従兄弟とも知り合った。名前はエミだ。彼は入学試験の準備のクラスで綺麗な女の子と知り合った。 大学の1年生の時、僕の教室は55号室で、従兄弟のは80号室だった。僕の教室にはその女の子がいた。実は僕はまだ会ったことがなかった。彼女を見た時、「スタイルがいいな」と思った。それから、席のそばに座って、話しかけた。名前はカンデラだった。そして、カンデちゃんは携帯電話番号やメールや住所等を教えてくれた。嬉しくなったよ。でも、ある日、エミ君はカンデちゃんが僕の教室

葛飾北斎

ウキヨと言う言葉は平安時代から鎌倉時代にかけて出て来た言葉である。そのうち、仏教や無常観で辛い人生と言う意味として使われた。それから、江戸時代に入って人々はスーパーポシティブの意味として使うようになって浮世と言う言葉が生まれた。浮世絵の代表的な画家の一人は葛飾北斎である。この絵師の作風は日本人の先祖の日常生活や習慣などを表している。その作品は欧州に普及し、パリに入って、フィンセント・ファン・ゴッホのような画家が北斎の作品に憧れて西洋芸術に浮世絵の影響を与えた。北斎の最も有名な浮世絵は神奈川沖波裏である。 現在、日本でもポピュラーな北斎の作品は世界中でも知られる。浮世絵の精神はさらに現代の漫画とアニメの作成にも影響を与えているのである。