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後藤先生の思い出

私は日本語の先生がたくさんいた。その一人が後藤先生だ。彼女の教え方は日本の学校と同じぐらいだったと思う。授業を始める前に、生徒が起立して、「礼、お願いします」と言う同時に、礼をしていた。それから、授業が終わる前に、今日習ったことについて感想や意見を述べさせる。最後に、私達生徒が礼をしていたことを思い出す。私は日本にいるように感じていた。時々、黙想もしていた。ある日、先生と書道のクラスがあって、5月に関する好きな漢字を選んで、半紙に筆で書いてから、黙想。目を閉じて、選んだ漢字等について考えさせた。私は「五月の愛」と書いて黙想した。黙想しながら、女友達の気持ちが分かった気がした。黙想の後、先生は黒板の前に立って、選んだ漢字についての感想を一人一人言わせた。僕は女友達と先に前に出て「愛を感じるのが好きですから、この漢字を選びました」と言ったか言わないかのうちに、その女性は「ねえ、それはあたしも言うのに」と大声で言ってくれた。私は信じられなかった。彼女が考えていたことが分かるようになったのだ。黙想というものは以心伝心を促進する有効的な方法のことだと思う。

今日は日本語のメモを整理したら、後藤先生の授業で書いたこの作文を見つけた。


私 の 妹
僕の家族は4人です。両親、妹と僕です。妹はセシリアです。誕生日は10月の14日で、年は21歳です。妹はおしゃべりですが、やさしいです。彼女は髪の毛が茶色で、目が黒いです。それに、痩せていて、身長は1.70ぐらいメトルだと思います。勉強は自分の部屋でずっと集中してやっています。


子どもの頃天気がいい日にテニスをしていた事を思い出します。一日中家の庭で遊んでいました。時々私が勝ちました。5歳のときは遊戯的な女の子でした。ある日、家族とスーパーに買い物に行って、買うものを払うときレジテープに指を挟んでしまいました。みんなびっくりしましたが、おかげさまで痛まらかったんです。大人になってきたときといえば調理師になりたがりますが10歳ぐらいのときは目医者になることを決めた。とうとう、ファッションデザインの講座を始めて、高校学校を卒業した後で、ジャーナリストになるように大学に進みました。


妹はファッションデザイナーです。そして英語とコミュニュケーションを勉強しています。デザイナーとしてシェラトンホテルで仲間とファッションショーを開き有名なデザイナーのイバニエス・ホルヘが来て批評を受けました。


ドキュメンタリー映画も作ったそうです。その映画のテーマは障害者の話です。それはラマタンサ大学の講堂で上映されました。彼女の趣味は音楽を聴くことです。アメリカとイギリスの音楽が好きです。Coldplayばかりを聴いています。そのバンドは暗いので僕は好きではありません。でも各人各様だと思います。連続ドラマは「ドクトルハウス」が好きで、映画なら「ハチ公 ハリウッド版」のほうがいいそうです。


暇なときに、大学の友達と集まって、モロンやラモス・メヒア町を散歩したり、ボーリングをしたり、しています。そして、マクドナルで夕ご飯を食べながら、大学のこととか、ファッションとか、映画とか、音楽などについて話をするそうです。いつも食欲がありますから、食べる時間では焼き鳥を食べるのがすきです。普通の店には焼き鳥がありませんので、ハンバーガーかアサードをたのんでしまったんです。夢はフランス、イギリス、オーストラリアを旅行することです。そして大学を卒業してから大手の新聞社に勤める事です。」

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