スキップしてメイン コンテンツに移動

心に残ったとっておきの思い出

「私は実家に行ってみた。私は小さい頃は、作業場は近所にある別の家の一階で、とても広いところだった。他の職人さんたちが仕事帰りにあいさつをしに寄ったり、近所の人が通りかかる度にちょっと声をかけていったり、仕事も忙しくても手間がかかるから活気があってとてもにぎやかだった。だんだん景気が悪くなって、父の事務所は父だけになり、作業場も家の中にこしらえた。たまに手伝いの人が来る程度で、どんどんさびれていった。それでも、仕事をしている父を見るのは好きだった。母が一日に何回かお茶を運んでいくと、父は手を休める。忙しいからそこに置いとけ、ということは滅多になかった。そして父と母がたわいないおしゃべりをしている声が、台所のほうにかすかに聞こえてくる様子も大好きだった。
 
しかし父のいなくなった実家は誰も住んでいない家特有の荒れて淋しい感じがして、父の作業場には墓石もひとつも残っていなかったし、道具がひとつもなかった。駐車場の車ももちろんなかった。
住居の中はそのままで、母が捨てられなかった古いトースターだとか、花柄のポットだとかが、薄暗い台所に息をひそめていた。なんだかやりきれなくなった。もうここでは誰かに何かが終わってしまったのだ。何もかも失われてしまった。」と。


よしもとばなな著者の「アルゼンチンババーア」という小説からのこの引用を読みながら、自分自身の幼児期のことを思い出した。母方のおばあちゃんの家に泊まることが大好きだった俺は、上記の引用を読んで感じた懐かしい気持ちを込めて、俺の過去のエピソードを話そうと思う。

あのクリスマスの日は記憶に刻まれている。おばあちゃんと過ごした最後のクリスマスだったからだ。あの日、家に着いた時は嬉しそうに迎えてくれたものだ。ジャスミンの香りが漂う部屋に入ると、飾ってあったクリスマスツリの下に置いてあるプレゼントを見て感動したことを覚えている。俺はプレゼントを開けるのが待ち遠しかった。アルゼンチンでは、プレゼントを開けるには、時間が零時になることを待たなくてはいけないが、幼い子供の俺は時間が経つにつれて、我慢ができなくなってきたのだ。


一晩中花火を見つめて、おばあちゃんの御馳走を味わって、そのクリスマスは楽しく過ごした。翌年、おばあちゃんが亡くなり、もう二度と素晴らしいクリスマスは過ごせなくなった。しかも、それきりおばあちゃんの家でクリスマスを祝わなくなったのだ。これをきっかけに、俺は寂しがり屋になってしまったと思う。死というものは生涯乗り越えられないものなのだろうか。

コメント

このブログの人気の投稿

失恋の気持

夕方の薄暗い空の下、 岩の上、 水平線の眺め。 美少女に恋焦がれてる若者が 孤独の翼に包まれてる感じ。 悲嘆に映った流れる涙が 秋の木枯しに枯れ果てた。 燕が雲海を飛ぶ間 失望の海に 命を沈め。

アルゼンチンでの日本語翻訳大学専門

編集を勉強する大学に入る前に、日本語翻訳を勉強したかった。しかし、その目標をやめて、編集に従事することにした。理由は日本語の高い水準がなかった以上、日本語翻訳を勉強する大学に入るのに、無理だと言われることだ。インターネットで調べた結果、アルゼンチンで日本語翻訳に従事する唯一の大学はブエノスアイレス大学なのだ。そして、入る前に、CBC、いわゆる、基礎知識講座という受験科目に受かった後、スペイン語試験と日本語試験をパスせねばらないそうだ。そのCBCって、社会的国家知識、科学的推理知識、法律人権入門、中南米法律知識、社会学、記号学という6つの科目で構成される。各科目の学期は4ヶ月の期間と定められている。   語学試験の場合は、スペイン語試験の時は筆記試験だけだが、日本語試験の時は口頭試験と筆記試験を受けるのだ。口頭試験では、受験者は新聞や雑誌などに載せられた記事や写真をもらって、その資料に関して、文法をきちんと使って分析と解説をやらなくてはならないそうだ。それから、筆記試験の時に、ある近代の著者のテキストの内容について、日本語で作文を書いて、説明した上、日本語文法試験をするとのことだ。合格してから、大学に入って、5年間のカリキュラムがあるその専門に従事することができる。しかし、どんな大学専門を勉強しようと思っても、そんな資格が必要なのだ。それなのに、だれも日本語翻訳を勉強しないのはなぜなのだろうか。   調べたところによると、国内には西日日西翻訳家が2人ばかりいるそうだ。2人は日本人、あるいは日系人で、自分のビジネスなのだから、他の人に翻訳家にならないでほしいと思っているかもしれない。この翻訳家も試験官として入学試験で担当するため、試験に合格させないことになる。大学の官庁に抗議しても、この状況が続いている。大学の先生方からは適度な国語のレベルが十分にないっていう言い訳が届いてくるだけ。あるインターネットフォーラムのユーザーの投稿によれば、ラプラタ学校出身者の日系人も受けたが、失敗したとのことだ。日本語翻訳専攻のマフィアの成果にほかならないと思う。 それでは、勉強したいなら、海外に行くしかない。それとも、違法だけれども、試験官に多額な賄賂を払ったらいいのか。最後に、その翻訳家が死ぬまで待つのか。適当な方法がどちらなのかとまだまだ考え続けている。皆さん、アルゼンチンの中

カセロスの戦い

先月、日本語の先生にアルゼンチンのある時期の歴史について記すように言われた。ウィキペディアの記事をいくつか読んだ末、カセロスの戦いについて書くことにした。どうしてその戦闘を選択したのかあなた達がきっと自問しているでしょう。その戦いの結果が国を統一したからです。 フアン・マヌエル・デ・ロサス氏「1829年~1852年」のブエノスアイレスの独裁政権は19世紀のアルゼンチンでは、「カセロスの戦い」という未曽有の戦闘に落ちりました。ロサス氏の政府は、全国組織と憲法を確立することに反対しました。なぜから、全国にブエノスアイレスの関税収入を分けるべきですから、ブエノスアイレスの利益が減ってくるし、覇権も失うおそれがありました。 したがって、エントレリオスの知事のウルキサ氏は1851年に、「プロヌンシアミエント」という書類を書くことにしました。その契約には、ロサス氏の辞任を受理し、エントレリオスに国際関係を任せるといった条約がありました。その頃、ブエノスアイレスが国際関係は統制しました。 他の言葉で言いますと、エントレリオスの領主は、ブラジル、ウルグアイとコリエンテス県の軍隊を味方につけ、「大軍」を樹立して、ロサス氏に宣戦を布告しました。 戦闘は1851年2月3日にブエノスアイレス市の郊外でのカセロス貴族の牧場で行われましたので、カセロスの戦いと称しました。ロサス氏は34000の軍人と60挺の鉄砲を集中するに引き換え、ウルキサ氏は24000人の軍隊を持っていました。ロサス氏の軍備の優位は明らかであったも関わらず、6時間ぐらい奮闘して、ウルキサ氏の軍は勝利しました。 ロサス氏はイギリスへ逃げました。その国で、数年後死去しました。 その勝負はアルゼンチンの歴史にとって転換期であった。国は統一されて、アルゼンチン共和国が生まれました。