スキップしてメイン コンテンツに移動

友好の縁

2007年の高等学校の授業の最後の日では、「今日からは、自分たちで決めたことによって、僕等の将来が良くも悪くも変わるのはもとよりですが、何よりも距離が遠くなっても、この縁や関係が絶えないように!」とだれかが言った。

この何年間にわたって、色々な出来事が起こった。クラスメートの何人かは子どもができて、家族を作ったし、何人かも色々な職場や看護師やトラックの運転手といった職業で働いているし、他は頭の腫瘍が見つかって重病を苦しんだ間に、完治した。学校の他の知人はバイク事故のため、一本の足をなくした。その後、大手のスーパーのトラックを暴行して、品物を盗もうとしたら、警察によって逮捕されて、3年間ぐらい刑務所にいて、高い保釈料を納めて、自由になったとのことだ。今は父親になったそうだ。何人かは麻薬中毒者だそうだ。おかげさまで、大学に進めた人もいるよ。


僕は学生の時、クラスメートと一度も出かけたことがない。僕の性格、生活ぶり、好き嫌いが何人かと合わなかったため、その何人かと仲が悪かったのをきっかけに、僕は皆に怒ってしまったというわけだ。ひきこもりのような生活を送ってしまった。学校に通うためだけに出ていた。今、仲間に対して怒ってしまったことをちょっと後悔している。日本語の勉強をし始めたことが契機となって、僕はだんだん気さくな性格になってきたのだと思う。情報理学の専門を勉強し始めた時も、新しい人々と知り合って、違う現実や他の人の体験を知ったりしたから、考え方を切り変えられた。


実は学校の仲間と一度出かけたことがあることを思い出す。建築に関する実習をやるために、四人のグループで、色々な建築様式の建築物の写真を撮ったり、取材をしたりすることを目標に出かけねばらなかったのだ。仲の良かったクラスメートと集まって、出かけた。首都に行って、カサ・ロサーダ「大統領府」、カビルド「国家が生まれた場所、すなわちこの国が自治を得た集会が行われた場所」、テアトロ・コロニアル「コロニアル劇場」、フラガタ・リベルター「リベルター船」といった有名な場所の写真を撮った。


本当に楽しい日を過ごしたが、帰りのバスに乗った時に本当の冒険が始まった。バスに乗って、平原の所を通過したとたん、突然、バスが石を投げて襲われた。窓のガラスが割れたし、一人の乗客も顔をけがした。泥棒はバスを暴行するために石を投げたが、運転手は止まらず、走り抜けたおかげで、僕等は助かった。どんなにびっくりしたことか。僕が初めて彼等と出かける時に限って、そんなことが起こったのだ。縁起が悪いだろうか。


7年の後、久しぶりに二人のクラスメートと、(今は友達となった)対面した。エリック君とフリオ君とアサードをレストランへ食べに行った。つい昨日のことのように、昔のことについておしゃべりをしたりした。僕が知らなかった仲間同士の隠れた交際のこともわかった。フリオ君はロドーというスーパーの物流の仕事をしていて、エリック君はカサ・ロサーダと領事館で警備のコーディネイトとして働いてる。彼はこの仕事のおかげで、日本の皇子の秋篠宮や中国の首相やアルゼンチンの大統領やフランシスコ法王などといった有名な人に会ったことがあると話してくれた。そして、色々な国を訪ねたのだ。その人に会ったイベントの写真も見せてくれた。秋篠宮に関して、親切な人だと語った。僕の友達は顔が広くて、モテる。うらやましい仕事だね。


僕のクラスメートと僕は運命がすごく変わった。何人かは自分の計画に成功したし、他は苦労した。僕の場合は、大学を卒業したからって、独りで、失業者ということだ。

コメント

このブログの人気の投稿

葛飾北斎

ウキヨと言う言葉は平安時代から鎌倉時代にかけて出て来た言葉である。そのうち、仏教や無常観で辛い人生と言う意味として使われた。それから、江戸時代に入って人々はスーパーポシティブの意味として使うようになって浮世と言う言葉が生まれた。浮世絵の代表的な画家の一人は葛飾北斎である。この絵師の作風は日本人の先祖の日常生活や習慣などを表している。その作品は欧州に普及し、パリに入って、フィンセント・ファン・ゴッホのような画家が北斎の作品に憧れて西洋芸術に浮世絵の影響を与えた。北斎の最も有名な浮世絵は神奈川沖波裏である。 現在、日本でもポピュラーな北斎の作品は世界中でも知られる。浮世絵の精神はさらに現代の漫画とアニメの作成にも影響を与えているのである。

心に残ったとっておきの思い出

「私は実家に行ってみた。私は小さい頃は、作業場は近所にある別の家の一階で、とても広いところだった。他の職人さんたちが仕事帰りにあいさつをしに寄ったり、近所の人が通りかかる度にちょっと声をかけていったり、仕事も忙しくても手間がかかるから活気があってとてもにぎやかだった。だんだん景気が悪くなって、父の事務所は父だけになり、作業場も家の中にこしらえた。たまに手伝いの人が来る程度で、どんどんさびれていった。それでも、仕事をしている父を見るのは好きだった。母が一日に何回かお茶を運んでいくと、父は手を休める。忙しいからそこに置いとけ、ということは滅多になかった。そして父と母がたわいないおしゃべりをしている声が、台所のほうにかすかに聞こえてくる様子も大好きだった。   しかし父のいなくなった実家は誰も住んでいない家特有の荒れて淋しい感じがして、父の作業場には墓石もひとつも残っていなかったし、道具がひとつもなかった。駐車場の車ももちろんなかった。 住居の中はそのままで、母が捨てられなかった古いトースターだとか、花柄のポットだとかが、薄暗い台所に息をひそめていた。なんだかやりきれなくなった。もうここでは誰かに何かが終わってしまったのだ。何もかも失われてしまった。」 と。 よしもとばなな著者の「アルゼンチンババーア」という小説からのこの引用を読みながら、自分自身の幼児期のことを思い出した。母方のおばあちゃんの家に泊まることが大好きだった俺は、上記の引用を読んで感じた懐かしい気持ちを込めて、俺の過去のエピソードを話そうと思う。 あのクリスマスの日は記憶に刻まれている。おばあちゃんと過ごした最後のクリスマスだったからだ。あの日、家に着いた時は嬉しそうに迎えてくれたものだ。ジャスミンの香りが漂う部屋に入ると、飾ってあったクリスマスツリの下に置いてあるプレゼントを見て感動したことを覚えている。俺はプレゼントを開けるのが待ち遠しかった。アルゼンチンでは、プレゼントを開けるには、時間が零時になることを待たなくてはいけないが、幼い子供の俺は時間が経つにつれて、我慢ができなくなってきたのだ。 一晩中花火を見つめて、おばあちゃんの御馳走を味わって、そのクリスマスは楽しく過ごした。翌年、おばあちゃんが亡くなり、もう二度と素晴らしいクリスマスは過ごせなくなった。しかも、それきりおば...

恩師への想い

昨日、悲しいお知らせが届いた。驚くべきことに、母校の体育の先生だったブルーノさんが亡くなったのだ。仲間の話によれば、49歳で、腎臓癌によって死去したとのことだ。彼は僕が高校生の時の僕の体育の先生だった。準備運動、ストレッチ、身体検査のような、体育と健康の大切さを教えてくださった。僕は運動をする時、 未だに 恩師の授業が頭の中に浮かんでくる。 先生のおかげで、体育が重視だと学んだ。学校での良い思い出の中には、いつもはブルーノさんがいたと思う。 こっけいな彼もモリア・カサンの娘の水泳の先生だったこと、マラドーナと共にサッカーをしたこと、パッチ・アダムスとも知り合ったことなどの話をしてくださったものだ。 楽しい人だから、どんな時に真面目に話していたかどうか分からなかったので、学生の僕を時々迷わせたのだ。 この素晴らしい世界への第一歩を後押ししてくださった逸話と経験も豊富な恩師のために、この投稿を書いた。彼の教訓が心に刻まれているのだ。いろいろありがとうございました。