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日常生活を再評価

この間、仕事の面接があった。通信教育の塾での事務処理に関する仕事だった。条件は案の定、あまり良くなかった。不法就労だし、給料も安いし、労働時間は月曜~土曜 9:00~18:00時だったけど、とにかく受け入れた。その面接の2日後、トライアルを受けた。通常の仕事のつもりで、一日中働いた。うまくいけば、雇用されるのだ。

痛い目に遭った。職場を始めとして、事務所の窓からは駐車場が見えるだけで、空も木も見えなかった。自然に触れられる場所ではなかったのだ。自然に触れらる場所にいると、不安や神経質な気持ちをほぐすことができる。だから、そういった雰囲気の中で働きたいのだ。

それに、その職場では携帯電話を使ってはいけなかった。おまけに、労働時間が終わるまで、塾を出てはいけなく、昼御飯を買いに行けなかった。自分のお弁当を持っていかないといけない。俺は新人で、会社の規則を知らなかったので、例外的に食べ物を買に出る許可をもらった。それから、ルーチンワーク、すなわち、あまり頭を使わない仕事なので、俺は働きながら、生涯について反省し、色々な事を考え直した。

それは俺の短所の一つだ。つまり、頭を使ってないと、人生を考え直し始めて、がっかりしてしまうのだ。生まれたときから今までのことまでをも考えていた。もっとも考え込んでいたのはどうして、この道を選んでしまったかということだった。悪かったこと等を反省したり、幼児期の嬉しかったことを思い出したりすれば、するほど、落ち込んだ。楽しい生活を送っていないことに気づいたのだ。仕事が終わった後、課長に呼ばれて、私の優秀な仕事ぶりをほめられ、翌日「木曜日」から仕事に来るように言われた。翌日、一流企業での面接があったから、健康診断を受けると嘘をつき、金曜日で問題なければ、仕事にこれると説明した。すると、課長は上司と相談した上で、いつから仕事を始めるか電話で連絡すると約束した。しかし、その連絡は未だに来ない。

さらに、そのトライアルのおかげで、日常生活のことを以前より評価することを学んだのだ。これからは、快晴の空や木々を見つめたり、綺麗な空気を味わう。この度、ペット屋へ餌を買いに行ったら、いくつかの金魚鉢を見て、くぎづけになった。その時、やすらぎを感じて、ペット屋の店員の仕事がうらやましいという気持ちがわいてきた。それから、その周囲を歩き続けて、アサードの店という店に寄ったとたん、気持ちの気分がよくなった。要するに、痛い目に遭ったって、今を味わうことを習う良い経験になったと思う。

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