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今年度教連作文コンクールが優秀賞

在亜日本語教育連合会は毎年作文コンクールを行ってる。たいてい、学生が先生を通じて申し込んで、あるテーマについて書かなければならないのだ。そのテーマは教連によって、決められる。そして、生徒は家で書いて、それから、先生に添削してもらう。文章がオーケーなら、後は暗記するだけだ。というのは、コンクールの当日、学生は学校で二時間半ほど原稿用紙に下書きを見ずに書かなくてはならないからだ。

僕は三回も参加したことがある。入賞したのは三回目だった。今回のテーマは五輪のことになった。うれしい事に賞として証明書とメダル、それから2020年のオリンピック東京開催を記念する袋とステッカーをもらった。しかし、漢字辞書が欲しかったな。友達の話によれば、前の年は事典をもらえたというのに。僕が書いた作文はこれだ。

優勝への熱意
四年間ごとに全ての国籍の選手は特別な場所に集まることになっている。その催しというのは五輪のことだ。選手がそれぞれの目標に達するべく、自分の国の代表者として、優れる技を見せて人生の最高の日に向けて頑張っている。もちろん出場する事も意義があって、大切だけれども、それ以上に表彰台の一番上に立ちたいものだ。もし金メダルを持ち帰ることができたなら、きっと母国はヒーローのように迎えるだろう。

ある選手が自分の障害を乗り越えた人として、有名になった。彼は両足のない体でありながら、スポーツ界に壁が存在しないことを証明した。最初に、オリンピックに参加しようとした時に差別されたが、後になって、とても薄くて軽い競技義肢と彼の努力によって出られたという。


国際競技連盟から出場を却下された彼は、スポーツ仲裁裁判所に訴えた。「生まれつきの障害ですから、オリンピックに出てはいけません。」と裁判官は言った。「なるほど、両足を持っていたらできたのは確かですが、義足で普通の人間のように走られることを僕なりに世界に向けて勝って見せたいのです。機会を一度頂くだけでいいですから、お願いします!」と彼は大声で叫んだ。「機会をあげたことに間違いはなかったと証明して下さいね。」と裁判官はやっと賛成した。選手は驚くと同時に喜んで、「この与えられたチャンスを必ずものにして、金メダルを取って見せます。」と言った。


五輪競技でのマラソンに出場の折に、両足の支障をものともせずに、夢を叶えることとなった。彼は一生懸命走りながら、両親の事を思い出した。「息子さんの両足を切断するしかありませんが・・・。」と医者は主張した。「この子はもう亡くなるところでしたので、それは最も適切な道でしょうね?」と母は聞いた。「そのはずですよ。」との医者の言葉を思い出した途端、現実に戻って一声「できるぜ!」と叫んだか叫ばないかのうちに、一着でゴールしてしまっていた。それが強い意志ではないなら、何だろう。


オリンピックというものは優勝の熱意を解き放つ上で、自分の目標を達成する良い機会だと言えるだろう。
         

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