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サルミエント電車の事故の自分の考え

ブエノスアイレスで起こった近郊電車事故は51人の死亡者が出たそうだ。新聞によると、この事故の原因はブレーキ故障によって、電車の編成が衝突した。でもね、ブレーキ故障は何故なのだろうか。私にとって、ブレーキだけじゃなくて、ものの継続であるものだ。アルゼンチンの鉄道はイギリスによって改造された。サービスがよかったと言われていた。それから、その鉄道はペロン大統領の政府に国営化された後、破壊が始まったと思う。

サービスを使う乗客が電車を守らないし。つまり、電車の壁を塗ったり、席等を壊したりしてる始末だ。その理由は利用者はマナーが悪いし、他人の物も、公共乗り物も尊重しないことのはずだ。

一方、TBA社は編成も維持したり、改善したりしない。その上、現在の電車はとても古くて、新しいのも買わないつもりだ。そのため、アルゼンチンの電車のサービスは悪いわけだ。その事故は汚職の結果であるものだ。アルゼンチン共和国は利益の考え方で、常に世界の後進国になるだろう。

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葛飾北斎

ウキヨと言う言葉は平安時代から鎌倉時代にかけて出て来た言葉である。そのうち、仏教や無常観で辛い人生と言う意味として使われた。それから、江戸時代に入って人々はスーパーポシティブの意味として使うようになって浮世と言う言葉が生まれた。浮世絵の代表的な画家の一人は葛飾北斎である。この絵師の作風は日本人の先祖の日常生活や習慣などを表している。その作品は欧州に普及し、パリに入って、フィンセント・ファン・ゴッホのような画家が北斎の作品に憧れて西洋芸術に浮世絵の影響を与えた。北斎の最も有名な浮世絵は神奈川沖波裏である。 現在、日本でもポピュラーな北斎の作品は世界中でも知られる。浮世絵の精神はさらに現代の漫画とアニメの作成にも影響を与えているのである。

心に残ったとっておきの思い出

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