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新しい進路の窮地

久しぶりに書いている。一年ぐらい前から何も書いていない。私にとって、書くということは反省させられる趣味のようなことなのだ。この一年間、私の生活にはたくさんのことが起こった。いいことが多かったと言える。確かに、私の進路を変えた出来事だった。一番の大きい変化は仕事だった。しっかりしている仕事だからこそ、将来のことを考える可能性が与えられたと思う。自分の世界は広がった。想像だにしなかった職場に入った。でも、それは心に残る内緒。

私の性格は前向きなところがあるので、腕を磨いて、職場でも実績を上げることを目的として、法律を勉強し始めた。将来は重役になれるといいね。

仕事を始めとして、立てた目標を達成すれば、新たな目標も現れた。その一つは一人暮らしだ。理想なのはアパートを買うことだが、それはアルゼンチンの経済情勢では、とても難しい。難しいんじゃなくて、無理。だから、唯一の可能性は借りることなのだ。でも、同時に、安定した生活を送るために、貯金したいというジレンマに陥る。そのために、いろいろと考えている。ええ、短所はすべて損得を考えすぎてしまっていることだ。木を見て森を見ない。

毎月もらう給料はさておき、家賃を払う余分なお金を作りたいものだ。いろいろな方法を試している。最初に、このブログの読者らに宣伝にクリックしてほしい。お願いします。それから、定期預金を始めようと思っている。最後に、編集を勉強していた大学の仲間と、翻訳、校正や随筆のサービスを提供するという会社を起業するつもりだ。皆さん、合法的にお金を儲けるほかの提案があったら、教えて下さい。

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失恋の気持

夕方の薄暗い空の下、 岩の上、 水平線の眺め。 美少女に恋焦がれてる若者が 孤独の翼に包まれてる感じ。 悲嘆に映った流れる涙が 秋の木枯しに枯れ果てた。 燕が雲海を飛ぶ間 失望の海に 命を沈め。

一目惚れ

九月の静かな朝、いつもの通りに目を覚ました。春の初めだった。その日は大学でスペイン語文法の試験があった。だから、早く起きたけど、ちょっと緊張していたことを思い出す。 リュックを取って、バス停に向かった。バスを待っていたら、僕の後ろに、天使みたいな金髪で青い目の女性があらわれた。僕がちょっと右を向いて、「へえ、美少女だ、話しかけてほしいものだなぁぁぁ」と思ったとたん、「ねえ、86番のバスを待ってるの?」「いや、僕、56番のバスに乗るんだ」と言った。 「ラパテルナルに行くの?」と聞いてくれて、「いや、大学に行くよ」と答えた。すぐに、彼女は話を続けて、「じゃあ、何を勉強するの?」「編集。」「君は何?」と僕が言った。 たばこを吸いながら、「あたし、来年は法律の勉強を始めるかも」と答えたのだ。その後、沈黙があった。でも、彼女もまた、「涼しい日だよね」と言って、僕は「うん」とあいづちして答えたが、実は彼女の名前を知りたがったのだ。でも、名前が聞けなくなってしまった。恥ずかしいものだ。適当な状況じゃないと思ったわけだ。 バスが着いた時、「バイバイ、がんば、がんば」と別れて、バスに乗った。恋してしまった。僕の目から愛して止まない遠ざかる素晴らしい姿を眺めて、大学に行った。あの日から、毎晩綺麗な彼女ともう一度すれ違う日を夢見てる。

カセロスの戦い

先月、日本語の先生にアルゼンチンのある時期の歴史について記すように言われた。ウィキペディアの記事をいくつか読んだ末、カセロスの戦いについて書くことにした。どうしてその戦闘を選択したのかあなた達がきっと自問しているでしょう。その戦いの結果が国を統一したからです。 フアン・マヌエル・デ・ロサス氏「1829年~1852年」のブエノスアイレスの独裁政権は19世紀のアルゼンチンでは、「カセロスの戦い」という未曽有の戦闘に落ちりました。ロサス氏の政府は、全国組織と憲法を確立することに反対しました。なぜから、全国にブエノスアイレスの関税収入を分けるべきですから、ブエノスアイレスの利益が減ってくるし、覇権も失うおそれがありました。 したがって、エントレリオスの知事のウルキサ氏は1851年に、「プロヌンシアミエント」という書類を書くことにしました。その契約には、ロサス氏の辞任を受理し、エントレリオスに国際関係を任せるといった条約がありました。その頃、ブエノスアイレスが国際関係は統制しました。 他の言葉で言いますと、エントレリオスの領主は、ブラジル、ウルグアイとコリエンテス県の軍隊を味方につけ、「大軍」を樹立して、ロサス氏に宣戦を布告しました。 戦闘は1851年2月3日にブエノスアイレス市の郊外でのカセロス貴族の牧場で行われましたので、カセロスの戦いと称しました。ロサス氏は34000の軍人と60挺の鉄砲を集中するに引き換え、ウルキサ氏は24000人の軍隊を持っていました。ロサス氏の軍備の優位は明らかであったも関わらず、6時間ぐらい奮闘して、ウルキサ氏の軍は勝利しました。 ロサス氏はイギリスへ逃げました。その国で、数年後死去しました。 その勝負はアルゼンチンの歴史にとって転換期であった。国は統一されて、アルゼンチン共和国が生まれました。