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孤独を紛らわせる付き合い

今日は部屋を片付けたら、やや台無しになったノートを見つけて、懐かしかったので、読んで、このブログで共有する。

「2008年12月9日水曜日午後9時。
天気は曇りで、とても暑い。
名前はヴェホ・フアン・カルロスだ。今日は初めて日記を書き始めた。


1989年7月8日にアルゼンチンで生まれた。幼い頃は気分が凄く良かったけど、今は少し悪い気分になった。つまり、1998年まで嬉しかった。あの当時、おばあちゃんが死去したからだ。人間も死ぬことが初めて解ったものだ。2001年にはおじいちゃんも亡くなった。この時に、人がどうやって死ぬか見つめたことがある。とても辛くて、悲しかったものだ。この悲しみは未だに消えない。恋人を持っても、消えないと思う。


今まで、本当に3回だけ恋した。マレナちゃんには初めて恋したけど、決して彼女と話してみなかった。彼女は美少女で、僕は近寄るにつけて、胸がワクワクして、舌がもつれて、話せなかった。


日本語を勉強し始めた時、ダニエラちゃんと知り合った。金髪の髪の毛をした女の子だった。僕はその時、16歳で、彼女は19歳だった。でも、初めて会った時に一目惚れしたわけじゃなかった。ある日、彼女のことを夢見て、恋した。その夢では、僕は大きい図書館に居て、ダニちゃんに会って、抱きしめた途端、彼女に恋するようになった。その夢を見たからこそ未だに愛し続けている。でも、片思いだった。今年は久しぶりに彼女とチャットしたら、結婚して、2ヶ月の赤ちゃんがいると話してくれた。僕が「おめでとう」と言っても仕方がなかった。けれど打ち込んでしまった。前回彼女に会ったのは2007年3月24日だった。その日からはもう二度と会えなかった。ただし、感じることを習った。今は寂しいことだ。


今年もラ・マタンサ大学で情報理学を勉強し始めて、そこで従兄弟とも知り合った。名前はエミだ。彼は入学試験の準備のクラスで綺麗な女の子と知り合った。


大学の1年生の時、僕の教室は55号室で、従兄弟のは80号室だった。僕の教室にはその女の子がいた。実は僕はまだ会ったことがなかった。彼女を見た時、「スタイルがいいな」と思った。それから、席のそばに座って、話しかけた。名前はカンデラだった。そして、カンデちゃんは携帯電話番号やメールや住所等を教えてくれた。嬉しくなったよ。でも、ある日、エミ君はカンデちゃんが僕の教室を出たことを見た。その日の午後、彼はチャットで「嘘はもういいよ」と書いてくれた。そして、彼女のことを語って、メールを教えてあげた。僕達の2人は同じ女の子を好きになったのだ。


ある授業の日、誰かがカンデちゃんの机に愛のメッセージを書いた。彼女は僕が書いたと思ったけど、僕は「何も書かなかった」と言った。しかし、あまり信じなかった。その後、机に書いてあった電話番号に電話して、誰が書いたか調べたものだ。2ヶ月後、「フアン君、彼女をたくさん持ったの?」とカンデちゃんは聞いてくれた。「えっ、一人もいなかった」と答えた。それから、午後チャットで「君が好きじゃないよ」と打ち明けてもらった。凄く悲しくなってしまった。その上、ダニエラちゃんに息子がいることを知ったばかりなので、死にたかった。9月頃からは打ち込んでいた。


しかし、ある午後、携帯電話で知らない人からメッセージをもらって、チャットしてみた。その人の名前はフラヴィアだった。彼女も日本文化がとても好きで、夢も日本に行くことだ。その上、19歳だった。僕は嬉しくなって、だんだん気分が良くなってきた。神様の贈り物だと思う。だから、いつか彼女に会いたいものだ。


一方、大学で一番いいクラスメートのグループと知り合ったけど、彼らとは出かける機会がなかった。残念だろう。苦手なため、情報理学を退学して、勉強しようと思ってる大学専門ではそのグループみたいなクラスメートを見つけるのが望ましいことだ。今回、ブエノスアイレス大学で勉強したいのは出版編集だ。


ラ・マタンサ大学の友達はフェルナンダ、マルティン、ブセタ・マティアス、ディエゴ、ヴィクトル、ヴァリノティ・マティアス、ピノ、アリエル、カンデラ、アンドレア、シルビナ、ジョン。このグループにも恋した。また、いつか会いたいものだ。そして、カンデラちゃんは友好の大切さを教えてくれて、感謝している。最近、ダンジェラちゃんという小学校の元クラスメートとチャットで話してる。彼女とも出会いたくてたまらない。」

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