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国際交流基金奨学金の試験での体験

僕の夢の一つがいつか日本に行くことなのは誰だって知っているだろう。僕の友達のうち何人かはその夢を叶えた。その一人はルシアと言う。彼女は奨学金を受け取って、日本を訪問することができた。ルシアさんは日本語を勉強することを目標に僕と同じ日本語学校に通っていたが、僕は彼女が奨学金をもらったというニュースを聞いた時、すぐに尋ねた。「おうっす!ルシアさん、日本に行くって知ったけどさ、どんな奨学金受け取ったの?」と聞いた。「フアンさん、成績優秀者っていう国際交流基金の奨学金なの、日本滞在って2週間よ」と答えた。「その奨学金の目的さぁ、何?」とすぐに問い詰めた。「内容は日本語の勉強を深めたり、伝統的なお寺や神社を見物したりすることだそうよ。」とルシアさんは言った。しかし、僕はその頃、まだN3の学習者だったから、すべての資格を満たすか迷っていて、日本大使館にメールを送信した。メールで、次なる資格を教えられた。

1.海外の日本語教育機関等で現在日本語を学習している者または学習を修了した者。
2.申請の時点で初級(原則として 300 時間以上履修)を修了あるいはそれ以上の能力を有すると認められる成績優秀な者。研修の実施上、本研修の選考試験問題 50 点以上の日本語能力を有することを目安とする。日本語能力試験であれば N4 または旧日本語能力試験 3 級以上の保持者とする。(実は、能験N2に合格したのは不可欠だ)。
3.全期間を通じて研修に参加できる者。
4.現在日本語教師でない者。
5.申請の時点で、日本語教師として採用されることが決定していない者。
6.在外公館内部の関係者とみなされる者でない者。
7. 研修開始日現在、満 18 歳以上 55 歳未満の者。満 20 歳未満の場合は、保護者の了解を得ていること。
8.研修開始日現在で過去 5 年以内に日本に継続して 7 日間を超えて滞在したことがない者。
9.心身ともに健康な者。
10. 日本の義務教育を3年以上受けた者でない者。
11. 日本と国交のある国の国籍を有し、かつ、申請を行う在外公館または国際交流基金海外拠点所在地の国籍または永住権を有する者。


しかも、採用試験は毎年4月末の予定だとのことだ。僕がまだ満たさなかった最も大事で唯一の資格はN2合格証明書を獲得することだったので、申し込むことができなかったのだ。能力試験に受かった時、日本大使館の方から電話をかけてくださって、奨学金の試験について、知らせを受けるはずだが、僕の場合はN2に受かって、4月の2週目なのに、まだ電話がなかった。だから、大使館にメールで問い合わせた。僕の電話番号を知らせて、電話をしていただいた。電話で、短い面接があって、エラーによって大使館の登録には僕のデータが表れなかったから、僕に奨学金についての情報を教えるために連絡できなかったわけだ。間違いが直って、謝った。それから、申し込んだ。採用試験は合格したからって、奨学金を受け取るわけではない。受験者の中で得点が一番高い人は日本を旅行する夢が叶うということで、僕は就職活動もしているから、合格することを目標として必死には受験しないつもりだった。


翌週の水曜日9時15分に採用試験が行われる予定だった。採用試験は日本語について筆記試験と口頭試験が構成された。その朝、早く起床をして、ちょっとお腹の調子があまり良くなかったので、やや遅く家を出た。すぐにバスに乗ったが、渋滞で込んでいて、2時間ぐらいもかかった。普通の日はバスが1時間ぐらいで大使館の前を通過するが、この度、大使館に着く時には、道が工事中のため閉鎖されて、バスが擦れてしまって、4つぐらいの区画を歩くしかなかった。歩きながら、いらいらして考え込んでいた。「くそのバス!くその市!もう9時半だぞ。着いた時はもしかしたら叱られるかもしれないなあ。帰るかどうか。。。」と思った。でも、受けた。日本大使館は雑居ビルにあるから、ビルに入った時、身分証明書を見せて、大使館に入ることができた。遅刻した受験者の女子と共に入館した。大使館の助手は僕達に近づいて、「遅刻していますよ!!!」とやや叱られたのだ。アーサー王の円卓みたいな長い円卓がある部屋で試験が行われた。受験者のうち、日系人と西洋人がいた。全部で10人ぐらいいたと思う。日系人の一人はしげながという西部の仲間だった。


筆記試験はあまり難しくなかったと思う。様式は能験と等しかったが、違った問題が出て来た。漢字で書いてある言葉をひらがなに書いて、ひらがなで書いてある言葉を漢字に書き直す問題があった。ややこしかったのは漢字で書くことだった。易しい語彙だが、2つの言葉の漢字はどう書くか思い出せなかった。「昼」と「産」といった簡単な漢字だった。


口頭試験は面接みたいな試験だった。3人の前で、日本語で自己紹介と奨学金をもらいたい理由は何なのか、どんなスポーツをするのか、将来何になりたい、何をするつもりなのかといった僕のことについての問いかけに答えさせた。面接官、すなわち2人の男性と一人の女性の助手は聞きながら、メモを取っていた。受験者が一人一人インタビューされた。


試験が終わった時、しげながさんと別の受験者達と共にしばらくおしゃべりをして残った。みんなは楽しそうな人だった。西部の先輩と話しながら、冗談で今度は試験の前に、受験者を皆連れ去ってから、僕だけ受けて、一人だけだから、もちろん奨学金を受け取れると言ったりして、合格するための効果的な方法を思いついた。


翌週はメールで結果通知が届いた。残念ながら、「受験者は皆上手な日本語能力を発揮しましたが、一人だけ日本に行くことができます。今回の優秀者はミゲルさんです。おめでとうございます。みなさまご応募していただきありがとうございました。」というメールを届けてもらった。それから、僕に大使館の助手は、今度は例の奨学金というより、他の研究留学の奨学金に応募するように勧められた。応募したいものだが、資格の一つは大学で勉強した専門のテーマに関する研究計画書を提供することだから、今は何を書くか心当たりがないし、滞在は1年ないしは2年だから、もしこの時働き始めていた場合は、仕事では長期間の休業を保障してはくれないだろうと思って、その奨学金を申し込むことをためらっているわけだ。その事情は別として、来年もまた頑張ろうと思う。

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