スキップしてメイン コンテンツに移動

北朝鮮、社会主義者の夢

社会主義的な政府、すなわち独裁政権は平等に資産などを民衆と共同し、誰もが同等の取得や好機に恵まれ、教育を受け取り、貧しくない生活を送らせるという口実をもって、民主を圧伏して、封建社会を創設してしまう。つまり、社会主義者というものは王政を嫌うが、独裁政治は好む。独裁者は国王のように私服を肥やして暮らして、国民は貧しく生活するという政府を促進する。

金正恩らは社会主義独裁体制のもとで北朝鮮を治める。金正恩以外、国民は自由に出国や入国したり、自分の資産を所有したり、表現の自由を行使したりしてはいけない。日毎に、人権が侵害されている。人が自分の意見を述べたら、警察に逮捕され、刑務所に連れて行かれて、拷問されるもので、北朝鮮人は政権に縛られる。絶望的な人は中国に逃げるが、不運な人は強制送還されてから、北朝鮮の長官に牢屋、もしくは強制収容所に送られるこもある。強制収容所では人々を死ぬまで、拷問し、働かせるのは日常茶飯事だ。有名な強制収容所はオンソングだ。逃げられた生存者によると、 約20万人の人質がいて、懲役を実施させるそうだ。驚くことに、捕らわれの家族もいるとのこだ。以前言った通りに、いろいろな拷問によって苦しませる。例えば、ある女性に毒を盛るキャベツの葉を食べさせて、鼻、口、肛門から血が出て、凄く苦しんだ末に死んでしまう。もし、食べることに反したら、家族を脅かす。 一方、家族を拷問するために、子供に毒を盛って、死にかける時、もちろん両親は蘇生しようとする。失敗したら、子供が死去したという悲しみに暮れても仕方がない。


現代にこんな事件が起こるのはなぜなのだろうか。社会主義がこの世に生み出せるのは独裁政治の促進のみだ。政治家は国民のニーズに答えて、国を治めるどころか、国民の期待に反して治めるばかりで、国の将来を損なってしまう始末だ。


社会主義体制はソ連とか、中国とか、ベトナムといったいろいろな国で失敗したからといって、未だに北朝鮮、あるいはキューバのような国の方針を促進したい人がいることを聞くにつけて、開いた口が塞がらない。中南米の中で、そんな独裁政権の国のように、ベネズエラがなりつつある。しかし、真向から否定するのではなく、社会主義の教育と保険制度という利点を資本主義に加えるべきなのは私の意見だ。資本主義なしの社会主義は独裁政治で、社会主義なしの資本主義は猛悪になるものだ。

コメント

このブログの人気の投稿

失恋の気持

夕方の薄暗い空の下、 岩の上、 水平線の眺め。 美少女に恋焦がれてる若者が 孤独の翼に包まれてる感じ。 悲嘆に映った流れる涙が 秋の木枯しに枯れ果てた。 燕が雲海を飛ぶ間 失望の海に 命を沈め。

アルゼンチンでの日本語翻訳大学専門

編集を勉強する大学に入る前に、日本語翻訳を勉強したかった。しかし、その目標をやめて、編集に従事することにした。理由は日本語の高い水準がなかった以上、日本語翻訳を勉強する大学に入るのに、無理だと言われることだ。インターネットで調べた結果、アルゼンチンで日本語翻訳に従事する唯一の大学はブエノスアイレス大学なのだ。そして、入る前に、CBC、いわゆる、基礎知識講座という受験科目に受かった後、スペイン語試験と日本語試験をパスせねばらないそうだ。そのCBCって、社会的国家知識、科学的推理知識、法律人権入門、中南米法律知識、社会学、記号学という6つの科目で構成される。各科目の学期は4ヶ月の期間と定められている。   語学試験の場合は、スペイン語試験の時は筆記試験だけだが、日本語試験の時は口頭試験と筆記試験を受けるのだ。口頭試験では、受験者は新聞や雑誌などに載せられた記事や写真をもらって、その資料に関して、文法をきちんと使って分析と解説をやらなくてはならないそうだ。それから、筆記試験の時に、ある近代の著者のテキストの内容について、日本語で作文を書いて、説明した上、日本語文法試験をするとのことだ。合格してから、大学に入って、5年間のカリキュラムがあるその専門に従事することができる。しかし、どんな大学専門を勉強しようと思っても、そんな資格が必要なのだ。それなのに、だれも日本語翻訳を勉強しないのはなぜなのだろうか。   調べたところによると、国内には西日日西翻訳家が2人ばかりいるそうだ。2人は日本人、あるいは日系人で、自分のビジネスなのだから、他の人に翻訳家にならないでほしいと思っているかもしれない。この翻訳家も試験官として入学試験で担当するため、試験に合格させないことになる。大学の官庁に抗議しても、この状況が続いている。大学の先生方からは適度な国語のレベルが十分にないっていう言い訳が届いてくるだけ。あるインターネットフォーラムのユーザーの投稿によれば、ラプラタ学校出身者の日系人も受けたが、失敗したとのことだ。日本語翻訳専攻のマフィアの成果にほかならないと思う。 それでは、勉強したいなら、海外に行くしかない。それとも、違法だけれども、試験官に多額な賄賂を払ったらいいのか。最後に、その翻訳家が死ぬまで待つのか。適当な方法がどちらなのかとまだまだ考え続けている。皆さん、アルゼンチンの中

カセロスの戦い

先月、日本語の先生にアルゼンチンのある時期の歴史について記すように言われた。ウィキペディアの記事をいくつか読んだ末、カセロスの戦いについて書くことにした。どうしてその戦闘を選択したのかあなた達がきっと自問しているでしょう。その戦いの結果が国を統一したからです。 フアン・マヌエル・デ・ロサス氏「1829年~1852年」のブエノスアイレスの独裁政権は19世紀のアルゼンチンでは、「カセロスの戦い」という未曽有の戦闘に落ちりました。ロサス氏の政府は、全国組織と憲法を確立することに反対しました。なぜから、全国にブエノスアイレスの関税収入を分けるべきですから、ブエノスアイレスの利益が減ってくるし、覇権も失うおそれがありました。 したがって、エントレリオスの知事のウルキサ氏は1851年に、「プロヌンシアミエント」という書類を書くことにしました。その契約には、ロサス氏の辞任を受理し、エントレリオスに国際関係を任せるといった条約がありました。その頃、ブエノスアイレスが国際関係は統制しました。 他の言葉で言いますと、エントレリオスの領主は、ブラジル、ウルグアイとコリエンテス県の軍隊を味方につけ、「大軍」を樹立して、ロサス氏に宣戦を布告しました。 戦闘は1851年2月3日にブエノスアイレス市の郊外でのカセロス貴族の牧場で行われましたので、カセロスの戦いと称しました。ロサス氏は34000の軍人と60挺の鉄砲を集中するに引き換え、ウルキサ氏は24000人の軍隊を持っていました。ロサス氏の軍備の優位は明らかであったも関わらず、6時間ぐらい奮闘して、ウルキサ氏の軍は勝利しました。 ロサス氏はイギリスへ逃げました。その国で、数年後死去しました。 その勝負はアルゼンチンの歴史にとって転換期であった。国は統一されて、アルゼンチン共和国が生まれました。