スキップしてメイン コンテンツに移動

アルゼンチンの8月と9月の祭り

アルゼンチンでは8月から9月にかけて、大切な日にちを祝う。8月の17日にはホセ・デ・サン・マルティンの命日を祭日として祝う。サン・マルティンは1778年2月25日に生まれ、1850年8月17日に死去した。彼はこの国出身の軍人で、政治家だった。アルゼンチンはもちろん、チリとかペルーといった南米の国を独立させるために、活躍した。国家のお父さんとして知られる有名人なのだ。回忌は休日だ。学校では校長の演説と生徒達の演出により、偉業をたたえる。偉業のうちの有名なエピソードはアンデス山脈超えのことだ。

1817年にロス・レアリスタスというスペインの軍隊からチリを解放させるために、サン・マルティンはラス・プロビンシアス・ウニダス・デル・リオ・デ・ラ・プラた、すなわちラプラた合州国「近代、アルゼンチン共和国」の軍隊と共にアンデス山脈を超えた。複数の戦闘の末に、チャカブコで勝利して、チリを独立に導いたのだ。

それから、8月にも子供の日が祝われる。子供の権利を尊重し、成長を祝う事を目的にした記念日は第3週目の日曜日に制定されている。まず、第1週目の日曜日だったが、年によっては、給料日前となるため、1990年代に第2週目に変更された。ただし、2011年に当時、全国で選挙があったため、第3週目の日曜日に変わった。
その日、家族が集まって、子供がプレゼントをもらう習慣がある。子供達にとっては、嬉しい日なのだろう。


9月の11日には教師の日が祝われる。当日、授業がない。9月11日は第7代大統領で、教育者、作家だったサルミエントが亡くなった日だ.サルミエントは1811年に誕生し、1888年に死亡し、国立の教育と文化と科学的進歩を推進するため、活躍した偉人だ。各小学生は先生にプレゼントを贈るげるが、学生同士お金を貯めて、先生に贈り物をする場合がある。各学校では前日の9月10日に先生を喜ばせると、学生等はたくさん練習して、歌や楽器の演奏や演劇を披露する。最後に、学生の日と春の日がある。9月21日同じ日にちに学生の日と春の日を祝われるのだ。学生の日というと、サルミエントの遺体がその当時はパラグアイから本国に送還されたから、学生の日は9月21日に制定される。


春の日は冬から春の季節の移り変わりを祝う事を目的として、高校生達と友達は花見のように、公園で集まって、ピックニックを行って、おしゃべりをしたり、ギターを弾いたりする習慣もある。集まる名所はロス・ボスケス・デ・パレルモというパレルモの公園だ。その頃、来亜したら、是非春の日を楽しんでほしい。

コメント

このブログの人気の投稿

失恋の気持

夕方の薄暗い空の下、 岩の上、 水平線の眺め。 美少女に恋焦がれてる若者が 孤独の翼に包まれてる感じ。 悲嘆に映った流れる涙が 秋の木枯しに枯れ果てた。 燕が雲海を飛ぶ間 失望の海に 命を沈め。

アルゼンチンでの日本語翻訳大学専門

編集を勉強する大学に入る前に、日本語翻訳を勉強したかった。しかし、その目標をやめて、編集に従事することにした。理由は日本語の高い水準がなかった以上、日本語翻訳を勉強する大学に入るのに、無理だと言われることだ。インターネットで調べた結果、アルゼンチンで日本語翻訳に従事する唯一の大学はブエノスアイレス大学なのだ。そして、入る前に、CBC、いわゆる、基礎知識講座という受験科目に受かった後、スペイン語試験と日本語試験をパスせねばらないそうだ。そのCBCって、社会的国家知識、科学的推理知識、法律人権入門、中南米法律知識、社会学、記号学という6つの科目で構成される。各科目の学期は4ヶ月の期間と定められている。   語学試験の場合は、スペイン語試験の時は筆記試験だけだが、日本語試験の時は口頭試験と筆記試験を受けるのだ。口頭試験では、受験者は新聞や雑誌などに載せられた記事や写真をもらって、その資料に関して、文法をきちんと使って分析と解説をやらなくてはならないそうだ。それから、筆記試験の時に、ある近代の著者のテキストの内容について、日本語で作文を書いて、説明した上、日本語文法試験をするとのことだ。合格してから、大学に入って、5年間のカリキュラムがあるその専門に従事することができる。しかし、どんな大学専門を勉強しようと思っても、そんな資格が必要なのだ。それなのに、だれも日本語翻訳を勉強しないのはなぜなのだろうか。   調べたところによると、国内には西日日西翻訳家が2人ばかりいるそうだ。2人は日本人、あるいは日系人で、自分のビジネスなのだから、他の人に翻訳家にならないでほしいと思っているかもしれない。この翻訳家も試験官として入学試験で担当するため、試験に合格させないことになる。大学の官庁に抗議しても、この状況が続いている。大学の先生方からは適度な国語のレベルが十分にないっていう言い訳が届いてくるだけ。あるインターネットフォーラムのユーザーの投稿によれば、ラプラタ学校出身者の日系人も受けたが、失敗したとのことだ。日本語翻訳専攻のマフィアの成果にほかならないと思う。 それでは、勉強したいなら、海外に行くしかない。それとも、違法だけれども、試験官に多額な賄賂を払ったらいいのか。最後に、その翻訳家が死ぬまで待つのか。適当な方法がどちらなのかとまだまだ考え続けている。皆さん、アルゼンチンの中

カセロスの戦い

先月、日本語の先生にアルゼンチンのある時期の歴史について記すように言われた。ウィキペディアの記事をいくつか読んだ末、カセロスの戦いについて書くことにした。どうしてその戦闘を選択したのかあなた達がきっと自問しているでしょう。その戦いの結果が国を統一したからです。 フアン・マヌエル・デ・ロサス氏「1829年~1852年」のブエノスアイレスの独裁政権は19世紀のアルゼンチンでは、「カセロスの戦い」という未曽有の戦闘に落ちりました。ロサス氏の政府は、全国組織と憲法を確立することに反対しました。なぜから、全国にブエノスアイレスの関税収入を分けるべきですから、ブエノスアイレスの利益が減ってくるし、覇権も失うおそれがありました。 したがって、エントレリオスの知事のウルキサ氏は1851年に、「プロヌンシアミエント」という書類を書くことにしました。その契約には、ロサス氏の辞任を受理し、エントレリオスに国際関係を任せるといった条約がありました。その頃、ブエノスアイレスが国際関係は統制しました。 他の言葉で言いますと、エントレリオスの領主は、ブラジル、ウルグアイとコリエンテス県の軍隊を味方につけ、「大軍」を樹立して、ロサス氏に宣戦を布告しました。 戦闘は1851年2月3日にブエノスアイレス市の郊外でのカセロス貴族の牧場で行われましたので、カセロスの戦いと称しました。ロサス氏は34000の軍人と60挺の鉄砲を集中するに引き換え、ウルキサ氏は24000人の軍隊を持っていました。ロサス氏の軍備の優位は明らかであったも関わらず、6時間ぐらい奮闘して、ウルキサ氏の軍は勝利しました。 ロサス氏はイギリスへ逃げました。その国で、数年後死去しました。 その勝負はアルゼンチンの歴史にとって転換期であった。国は統一されて、アルゼンチン共和国が生まれました。